自分は話を聞いて理解するまでに時間のかかる人間だと自覚している。内容を頭のなかで少しずつ噛み砕きながら、ひとつひとつ組み立てて、ようやく考えがまとまってくる、という具合に。

そんな自分にとって、何かにつけてすばやく自分の意見を出し示す必要のある居場所は、苦痛以外のナニモノでもない。

以前関わっていた某Webメディアでの仕事は、まさにそれだった。黙っているのは罪とばかりに責め立てられ、少しでもだんまりを決め込むと「何でもいいから話せ!」と罵られるような環境。

発した言葉は自分を縛る

もやもやしていた考えや思いも、口にだすことでようやくまとまってきたり、誰かの意見と交わることで考えが深まったりすることもある。だから、一概に悪いことであるとは思っていない。

しかし、発した言葉は自分を縛る。ひとつひとつの言葉に責任を持ちたいと思うなら、頭のなかにいるもうひとりの自分に問い合わせ、「よし!言ってOK」と決断されない限り、なかなか言葉として発することはできないものなんじゃないか。

自分の感情や思いにフィットした言葉が見つかるまで、たやすく発言するべきではないと思う。それは、勢いで話すと言葉にウソが宿りやすいからかもしれない。

「何でもいいから話せ」という暴力

その某Webメディアの運営元はいわゆるスタートアップ企業だったから、何をするにしてもスピードが重要視される。もちろんそれはひとつの在り方なので問題だとは思わない。

苦痛だったのも、たぶん自分の能力や適性がまるで合っていなかったことに原因があったのだろう。だが、こういったタイプの人間にとって、「何でもいいから話せ」という言葉は暴力でしかない。

考えや思いがすぐ言葉にならない私のような人は、スタートアップや新進気鋭のベンチャーで働くときっとつらい思いをする。

ディベートが得意な国では何でもいいから話すことが重要になってくるだろうから、グローバルな社会になっていくにつれ、こういった感覚の人は生きづらくなるんだろうなぁと嘆くこと然り。

自分の気持ちに一番フィットする言葉で話したい

このあたりの感覚について、ミシマ社の雑誌「ちゃぶ台」で、働き方研究家の西村佳哲氏がとても参考になることを述べている。少し引用してみる。

自分づきあいをしながら話す人っていうのは沈黙が多いよね。話しながら、自分に問い合わせをしている。「……っていうか」とか言いながら言葉を選び直す。で、一番最後に言った言葉がしっくりくるわけです。自分の気持ちに一番フィットする言葉で話したい。それでぴったりの言葉が見つかったときって内容がネガティブでも嬉しそうなんですよね。だから「自分の言葉でしゃべる」っていうのが自分づきあいの一番ポータブルな方法論なんです。

自分が話したくもないことを口にして生きていくのは本当によくない。それをやりつづけると人生が空虚に感じられてくるだろう。だから「自分にとって鮮度の高い言葉でしゃべる」ってこと、「自分の実感を大切にしながらしゃべる」ってことが大切です。

100%、同感だ。

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