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小春のアコーディオンのように、ひとりで完結させられるものを

スキゾイド的性質を持つ人は、内面的充実で幸福を感じられる生き物だ。だから、内面的充実が計れるものを持っているなら、人間関係なんて持たなくても大丈夫。ただし、なにものにも侵入を許してはいけない。小春からアコーディオンを取り上げてはいけないように、我々の内面的充実を取り上げるような人間と関わってはいけない。

「寂しい」という感情が、自分には無い。

自分に寂しいという感覚はないが、「人はどういうときに寂しいと思うのか」については、これまでに読んだ本と、つきあってきた人との経験で何となくわかっているつもりだ。だから人が寂しいと思わないように振る舞うことはできる。しかし、自分も寂しいからという感情による行動ではない。極めて理性的な判断によって行っている。

人には興味あるんだよ。でも、人間“関係”にはぜんぜん興味ないんだ。

自分は人間「関係」に興味がない。それは長きにわたって付き合いのある友だちがひとりもいないことが証明している。それぞれの折に、付き合いのある友人らしき人はいた。しかし、学年・学校を跨ぐ、会社を変える、サービスを辞める、といった節目で必ず関係は途絶える。

「何でもいいから話せ」という暴力

発した言葉は自分を縛る。ひとつひとつの言葉に責任を持ちたいと思うなら、頭のなかにいるもうひとりの自分に問い合わせ、「よし!言ってOK」と決断されない限り、なかなか言葉として発することはできないものなんじゃないか。

望まぬアドバイスの罪

情報過多で選ぶことに疲れた人たちにとって、レコメンドやキュレーションといった、ある種のおせっかいなアドバイスはありがたいものなのかもしれない。しかし、ことスキゾイド的気質の人においては、「余計なお世話」に成り下がる。