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テーマの著者 Anders Norén.
私がコロナ禍で読んだ本にどれほどの価値があるのか分からないけれど、備忘録として、またこの忌まわしい2020年という年を忘れないためにも、リスト化しておこうと思う。一応、簡易的に評価もつけておく。印象的な本も数多くあるので、ふと思い立った折に書評を書くかもしれない。
出版社がどれだけ熱い思いで本を造っているのはか松田奈緒子の「重版出来!」を読めばわかる。書店がどれだけ熱い思いで本を売っているのかは久世番子の「暴れん坊本屋さん」を読めばわかる。そして、製紙会社がどれだけ熱い思いで紙を造っているかは「紙つなげ!」を読めば、きっとわかる。
なんでもハラスメントという言葉をつけて排除しようとするのは気持ち悪いと思うが、「スポーツハラスメント」は大罪だと思っている。スポーツするもの/ことが神聖視されがちなこの国だからこそ、なおのこと自分はうるさく声を出す。なにせ、この状況下で来年オリンピックをやろうという国なのだから。
本なんていつでも読めると思っている人は、実際のところ、本当に「いつでも」本を読めているんだろうか。賭けてもいいけど、絶対読めてない。というか、読んでない。
今の自分が持つ思い出や記憶の大半が「自分で決めたこと」であるという事実がある。特に、覚悟を決めて決断したことは、古い記憶でもありありと思い出すことができる。そのことから、人間は「自分で決めたこと」しか記憶には残らないんだ、と結論づけた。
何かを隠すというのは、「人前では隠さなければならないものなんですよ」とアピールしているのと同じこと。カバーを裏返してまで本を読んでいる光景は、一種の羞恥プレイなのかなとすら考えてしまう。「恥ずかしい本を読んでいる私をもっと見て!」といったように。
スキゾイド的性質を持つ人は、内面的充実で幸福を感じられる生き物だ。だから、内面的充実が計れるものを持っているなら、人間関係なんて持たなくても大丈夫。ただし、なにものにも侵入を許してはいけない。小春からアコーディオンを取り上げてはいけないように、我々の内面的充実を取り上げるような人間と関わってはいけない。
もし死ぬまでお互いを想い続けられることを「本当の恋」と呼ぶのなら、誰かが「本当の恋」をしているか、自分が「本当の恋」をしているか判断するには、今際の際にならない限りわからないことになる。
自分に寂しいという感覚はないが、「人はどういうときに寂しいと思うのか」については、これまでに読んだ本と、つきあってきた人との経験で何となくわかっているつもりだ。だから人が寂しいと思わないように振る舞うことはできる。しかし、自分も寂しいからという感情による行動ではない。極めて理性的な判断によって行っている。
提案するたび「お前に責任が取れるのか?」と凄んでくる上司がいる会社は、ブラック企業と断定していいと思う。そんな上司には「いや、責任取るのはお前だから。お前は責任を取るために存在してるんだよ」って言ってやりたい。会社側はもちろん面接をしているが、面接にくる人も会社を見定めていると分かっていないのだろうか。
自分は人間「関係」に興味がない。それは長きにわたって付き合いのある友だちがひとりもいないことが証明している。それぞれの折に、付き合いのある友人らしき人はいた。しかし、学年・学校を跨ぐ、会社を変える、サービスを辞める、といった節目で必ず関係は途絶える。
他者次第の夢は、叶ったのが自分の努力のおかげだったとは言いきれないし、叶わなかった原因が自分の努力不足とは限らない。面接と一緒で、お祈りメールをもらっても「何が悪かったのか」「何が原因だったのか」はハッキリしない。だから、つかみどころがないし、報われもしない。