「文章の違和感に気づく能力」は教えられない

私にはライティングの師匠と呼べる人がいません。

スキルを学ぶスクールに通ったこともないですし、個人的に師事する誰かがいるわけでもありません。そのせいか、商業ライターをなりわいにしている方から、「不勉強な人」「向上心のない人」と言われることもあります。

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あらゆる物事が師匠になる

そこそこの年月をライターとして生きてきましたし、これからも一端の物書きとして食っていけるよう、成長していきたいと考えています。そのためには、多くのインプットとアウトプットが必要となります。読む、見る、観る、味わう…。そういった数多くのインプットがやがて血肉となり、筆力というアウトプットの質を向上させることにつながっていく。私はそう考えています。

だから、必ずしもスクールに通うことがライターにとって是とはならないと思いますし、個別の師匠がいなくても問題ないはず。それぞれひとつのインプット元程度にすぎないと捉えるだけでいいと思うんです。そういった意味では、「あらゆる物事が師匠になる」と言えるのかもしれません。

(ちなみに、個々の分野であこがれる人はいます。コピーライティングだと糸井重里さん、疾走感のある文章なら古川日出男さん、端正で艶のある文章は米澤穂信さん、笑い成分の盛り込み方は森見登美彦さん、など)

何を伝えたいのか、どう表現するのか

そんな考え方のもと、これまで個人のライターとして活動してきましたが、最近になって人に文章の書き方を教えるポジションを担うことも増えてきました。文法のイロハもまともに学んでいない自分が、人にライティングを教えるなんて……というのが正直な気持ちですが。

とはいえ私は、その人に表現したいことがあって、必要量を満たすインプットが済んでいれば、格別何か教えなくとも文章は(ある程度)書けるものだと思っています。いわゆる技術は拙いとしても、伝えたいハッキリとしたテーマと、それを表現するための言葉たち(=インプット)が内にあるなら、本質から外れないアウトプットはできます。

逆に、どれだけ技術力があっても、インプットが少なければアウトプットはできません。または、とても質の低いアウトプットしか出てきません。

文法や「てにをは」に問題があっても、それは技術の問題ですから、ロジックで説明すれば理解してもらえます。しかしインプットが少ないと、表現するための言葉選びに幅がなかったり、いつも同じようなロジックの文章構成になってしまいがちです。

よく見かけませんか?ひたすら同じ言葉を連呼していたり、冒頭と結論がもはや定型文になっているような文章を。

何より問題なのが、インプットの少ない人は、そういった文章に違和感を抱けないということです。

違和感に気づくには、相応のインプットが必要

勉強のためという意識がなくとも、これまでいろんな書物(や文章)に目を通してきた人であれば、稚拙な文章表現には敏感になっているはず。

だから、
「同じ言葉使いすぎてるなぁ、ここは類義語を使って表現し直そう」
「よく見たらいつも、“〜といえば○○ですよね” って切り口で書き始めてるな」
「あ、結論が毎回 “〜してみてはいかがですか?” になってる!」
といった具合に、書かれた文章の違和感に気づくことができるんです。

インプットの少ない人は、これができない。個々の文章・段落レベルならできたとしても、全体を読み通してとなると、もはや絶望的。

フィードバックを行い、その違和感に気づけるようアドバイスしたとしても、おそらくその違和感の本質的なところは自覚できない。だから、教えられたことを汎用的に扱えない。手を変え品を変え、何とか教えられないかと頑張ってみましたが、それももう限界。「違和感に気づく能力は、そもそも教えられることではない」と結論づけることにしました。

インプット量がテクニックを凌駕する

上辺だけのテクニックで生きていけるほど、ライターの世界は容易くない。インプットを怠るライターは、1文字◯円の世界で買い叩かれる未来しかやってこないのではないでしょうか。

私はそんな、たやすく消費されるような世界に行きたくない。だから、良質なインプットに貪欲であり続けたいと思います。

Photo by Glen Noble on Unsplash

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