“ともだち100人できるかな”の罪 (童謡「一年生になったら」について思うこと)

2014年に亡くなられた詩人のまど・みちおさん。幼児期に習う童謡「ぞうさん」「一年生になったら」の作詞者としても有名ですね。特に卒園を控えた幼稚園年長の時期に歌う「一年生になったら」の歌詞を、印象深く覚えている人も多いんじゃないかと思います。

1番の歌詞はこちらです。

一年生になったら
一年生になったら
ともだち100人 できるかな
100人で 食べたいな
富士山の上で おにぎりを
パックン パックン パックンと

歌っている本人を入れると101人になるはずなのに、おにぎりを食べるのは100人となのかとツッコまれることもありますが、今回はそれに言及しません。

もっと根本的な、「友だち100人できるかな」という歌詞の罪について考えてみたいのです。

友だち100人など、できるはずがない

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大前提として、友だちを100人つくることはまず不可能です。Facebookでつながっている人を友だちとして扱うなら別ですが、そのほとんどは知人といっていいレベルの人たちでしょう。もし本当に大切に思う友だちが100人いるのなら、その人の人生は人間関係の構築と維持にすべてを捧げなければならなくなります。

たしかに、幼稚園児や小学生にとっての友だちの概念は、大人に比べるとはるかに気安いつながりだと思います。一度遊んだらもう友だちである、という捉え方は微笑ましいものでもありますからね。

たかが童謡ひとつにそこまでイチャモンつけてどうするのと言われそうですが、この歌の持つパワーは計り知れないと思うのです。それこそ知らない人がいないくらい日本人の脳裏にこびりついているでしょうし、特に疑うことなく子どもに歌わせているはずです。

これがどういう結果を生むかというと、
「友だちは多ければ多いほどいい」
「友だちが少ない/いないことは問題である」
という考え方が、当たり前のように刷り込まれてしまうということです。

「友だち至上主義」の危険性

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親や教師は子どもに対し、気軽に「友だちできた?」なんて聞きますが、この背後にも「友だちが少ない/いないのは問題」という前提があるように思います。

学校という極めて閉鎖的な環境で、自分にとって良い友だちができるかなんて、かなりの幸運に恵まれないと成し得ないことではないでしょうか。うまく友だちに巡りあえずひとりでいる子どもは、それが問題であるとされることに悩んだ上で、つき合いたいと思えない人と友だちのフリをしないといけなくなるわけです。実体験ゆえにわかるのですが、これって本当につらいんです。

この歌には、幼少期より「友だち至上主義」を植えつけてしまう危険性があると感じています。牧歌的に友だちが100人できたら楽しいだろうなと思えるのは、つき合いをうまくこなせる一部の子どもだけではないでしょうか。

まど・みちおさんの詩や童謡は幼い頃から親しんできましたし、好きなものもたくさんあります。でも、この歌だけは、ある種の気持ち悪さを感じてしまうのです。

友だちができなくたっていいんだよ

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このことに気づいたのは、劇作家・鴻上尚史さんの著書『孤独と不安のレッスン(※記事下部参照)』に、この童謡がもたらす負の面について書かれていたのを拝読したときです。一部を抜粋してみます。

友達の大切さと難しさを歌うのならともかく、ただ「友達100人」を歌い上げるのは、あまりにも脳天気で罪深いことです。

そして大人達は、1年生に向かって何の疑問もなく、「友達できた?」と聞きます。その質問の繰り返しが、子供達に、「友達ができないことは、間違ったこと」という価値観を刷り込むのです。

鴻上さんは、もちろんこの歌の存在だけが「友だち至上主義」を煽ったわけではないと書かれています。とはいえ、私はずいぶんこの歌に、無意識に縛られてきたんだなと思いますし、そういった方もきっといるのではないでしょうか。

もし私に子どもがいたら、この歌を歌わせようとは決して思いません。幼稚園や学校で学んだとしても「友だちができなくたっていいんだよ」と言ってあげたい。

あなたは、どう思いますか?

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