他人を自分好みに変えようとする人には、水平チョップをかましたい。

他人を自分好みに変えようとする人には、水平チョップをかましたい。

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なぜ人を変えられると思うのか、なぜそこまで自分が正しいと思うことができるのか

自分の意にそわない人間を片っ端から変えていこうとする愚かな人間はどこにもいます。私が20代を過ごした会社にはそんな人ばかりで辟易したものです。なぜ人を変えられると思うのか、なぜそこまで自分が正しいと思うことができるのか、不思議でなりません。

そんなことを考えていたときに、以下の記事を読みました。

ここで書かれていることにオールアグリーです。時折、自分の思い通りにいかずイラッとしてしまったときには、そんな自分に水平チョップをかますくらいには憎んでいる考え方ですね。

そして、人を変えようとしてくる人は大体「私」という言葉を使わない傾向があります。代わりに使うのは「世間」であったり「周り」であったり、「みんな」であったり「社会」であったりするものです。「私」を使うと角が立つとでも思っているのでしょうか?非常に卑怯なコミュニケーションではないかと思います。

「みんなそういう風に言っているし、あなたのやっていることは間違っているよ」
「それは世間が許さないね」
「周りの人はどう思うかな?よく考えてみたら」
「社会的に見てそれはどうなんだろう。おかしいと思わない?」

巷にはそんな空虚な言葉が溢れています。往々にしてその主語は=「私」なわけです。世間が許さないんじゃないくて、あなたが許せないだけでしょう?周りの人がどう思うかじゃなくて、あなたが変に思っているだけでしょう?ひょっとすると本人は本気でそう信じ込んでいるのかもしれませんが、自分が犯罪を犯したり倫理的におかしいことをしているならともかく、逃げながら攻撃してくる卑怯な言葉に相対する必要はないでしょう。

そんな人にかける言葉は、「うるさいバカ」で十分です。

太宰治『人間失格』に見る、世間という定義の実体

引用元の記事では、かの文豪・太宰治の名著『人間失格』にこの考え方についての文章があるとして掲載されています。私もこの本は幾度となく読んでいたのですが、ここまでくっきりと『世間』という定義の実体について書かれていたことに気づいていませんでした。書評を書いているものとして「人間失格」な思いです…。

もう一度読みなおしてみて感銘を受けたので、元記事執筆者の二番煎じで申し訳ないですが、当記事でも引用させていただこうと思います。

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」
 世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)
 汝なんじは、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣あくらつ、古狸ふるだぬき性、妖婆ようば性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、
「冷汗ひやあせ、冷汗」
 と言って笑っただけでした。
 けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。
 そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。シヅ子の言葉を借りて言えば、自分は少しわがままになり、おどおどしなくなりました。また、堀木の言葉を借りて言えば、へんにケチになりました。また、シゲ子の言葉を借りて言えば、あまりシゲ子を可愛がらなくなりました。

青空文庫 太宰治『人間失格』より
※太字は当記事執筆者によるもの

人に他人を変えることはできないし、するべきことは変わろうとしている人を応援すること

いやもう正直、このくだりを読んでいただければそれが全てです。何も追記する必要がないくらいわかりやすく書かれていると思います。とはいえそれではこんな記事をわざわざ書いた意味が薄れるので、最後に私の思いをぶちまけておきますね。

基本的に、変わろうとしている人を止めるのは最低の行為だと捉えています。今の立ち位置に留まらず、もっと先へ、もっと上へ、もっと違う自分へと向かう人間は輝かしい。それで失敗したとしても、経験したことは必ず次への糧になります。何かを失うかもしれませんが、それはいずれ失うはずのもので、次へ進むためにはどこかで捨てなければならなかったものでしょう。外野の声に影響されるなんて無意味です。

同じステージにいると思っていた友人が、変わろうとすることで違うステージに移ろうとする。留まっていた方はなぜか自分が置き去りにされたような感覚に陥る。でも自分は変わることで発生するリスクを恐れ、友人の行こうとしているステージに向かうことはしない。だから友人をこちらに引き戻そうとする。

それが冒頭で述べた、

「みんなそういう風に言っているし、あなたのやっていることは間違っているよ」
「それは世間が許さないね」
「周りの人はどう思うかな?よく考えてみたら」
「社会的に見てそれはどうなんだろう。おかしいと思わない?」

といった空虚な言葉なんだと思います。

人に他人を変えることはできないし、するべきことは変わろうとしている人を応援すること。私はそう常々感じています。


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