中村文則『迷宮』 迷い込んだ心のラビリンスに揺れるアリアドネの糸、もたらすのは光か闇か。

中村文則『迷宮』

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人間の内面を書き出す純文学とミステリ要素の融合

人間の徹底的な「悪」を描く作家・中村文則。私にとって、心の平穏を保つためにいなくてはならない作家のひとりです。どの作品も決して明るい物語ではありませんが、容赦のない悪の描写と人間を否定しない優しさの共存に、私は心の安寧を委ねてしまっています。

本書は27歳で芥川賞を受賞した中村文則の、11冊めとなる作品。デビューから10年という節目で出版された本書は、今までのように面と向かって悪を描くスタイルは残しつつ、積極的にミステリの要素を交えた異色作となっています。思えばこの後に出版された「去年の冬、きみと別れ」や最新作「教団X」でも、積極的に人間の内面を書き出す純文学とミステリ要素の融合に望んでいるように感じられますね。

純文学というと、どうしても内へ内へと閉じこもっていく記法が主体となりがちですが、中村文則は文体と物語の両方が共存する魅力的な作品を生み出そうとしているのかもしれません。

この「迷宮」は、タイトル通り自分の心というラビリンスに囚われてしまった人間の葛藤や感情を映し出そうとする物語。その過程で「悪」が描かれるわけですが、大きなテーマとして掲げられているのは「人は覚悟もないまま、悪を成すことができるのか?」という、途方もない惹句。

人は覚悟もないまま、悪を成すことができるのか?

必ずしも人は、明確な悪意の下に悪行を成すものなのか。

これまでの中村文則作品を読んできた方にとって、たやすく頷くことはできないでしょう。生まれ持っての「悪」というものが存在するのか私にはわかりません。人が成す悪とは、現実と折り合いをつけることができず、片足だけ、いやつま先だけ逸脱しながら生きている人がその逸脱を積み重ね、あるいは逸脱同士が混ざり合ったときに起こる「異常とされる出来事」なのだと私は理解しています。

「迷宮」で起こるその異常な出来事が、迷宮入りとなった一家殺人事件。被害者の名字から日置事件と呼ばれるこの事件は、殺人現場の異様な光景から折鶴事件とも呼ばれています。

折鶴事件

人は異質なものを本能的に避けつつ、どうしようもなく惹かれていく生きもの。忌み嫌われる新興宗教にのめり込んだり、禁忌とされる行為に首を突っ込んだり、残された謎が多すぎる事件に引き込まれたりするものです。

折鶴事件には迷宮入りした事件ゆえに、多くの謎を抱えたまま沈黙しています。興味本位で首を突っ込んだ者も、その闇の深さ、謎の奇異さ、そして殺人現場の美しさに魅せられ、やがて本能的に近寄ってはならないことに気づく。

「深淵を覗き込むとき、深淵もまたこちら側を覗き込んでいるのだ」とは偉大なる哲学者・ニーチェの言葉ですが、人間の心にたやすく踏み込もうとするならば、絡め取られ闇の藻屑になることを覚悟しなければならないという警句のようにも聞こえます。

「迷宮」と「迷路」の違い

「迷宮」と聞くと、おそらく道や部屋が入り組んだ構造の建物を想像する人が多いのではないでしょうか。しかしそれは「迷宮」ではなく、「迷路」です。実はこのふたつ、全く正反対の性質をもった対照的な存在なんですよ。

ラビリンスと呼ばれる迷宮とは、以下の画像のようなクレタ型迷宮を指すことが多いんですが、見ての通り「分岐のない、秩序だった一本道」なんですね。

クノッソスの迷宮図

Wikipediaより

ちなみに迷宮とは、

■通路は交差しない。
■一本道であり、道の選択肢はない。
■通路は振り子状に方向転換をする。
■迷宮内には余さず通路が通され、迷宮を抜けようとすればその内部空間をすべて通ることになる。
■中心のそばを繰り返し通る。
■中心から脱出する際、行きと同じ道を再び通らなければならない。
Wikipediaより

という条件を満たしているものであり、おおよそ「これを正反対にしたものが迷路」であることから、対照的な存在であるとされています。

チェーホフの銃、燻製ニシンの虚偽

「チェーホフの銃」という、小説におけるルールがあります。小説の早い段階で示された要素は、後になってその重要性を明らかにしなければならないという意味があるんですが、ご存知でしょうか。

ロシアの劇作家・チェーホフの作品『ワーニャ伯父さん』では、早い段階で持ち込まれたありふれた小道具としての銃が、終盤で怒りにかられたワーニャが掴み、発砲されることになります。

銃

“物語に拳銃が出てきたならば、それは必ず発砲されなければならない”

それがこのセリフです。

このルールに従って、このように考えてみました。

“物語に迷宮が出てきたら、そこから必ず脱出しなければならない”

※「チェーホフの銃」とは逆に、「燻製ニシンの虚偽」という表現もなされます。これはミスディレクション(偽の手がかり)を誘うものですが、本作では迷宮という言葉が物語中に頻出し、かつタイトルで端的に表現されていることから、「チェーホフの銃」の観点で捉えてみました。

アリアドネの糸

ギリシャ神話において、ゼウスの息子でありクレタ王のミーノスと、妻パーシパエーの娘として生まれたアリアドネ

彼女が恋したテセウスが迷宮(ラビュリントス)に入り込んだとき、脱出するための手段として糸玉を渡しました。アリアドネは迷宮の入り口に糸の端を結び、テセウスに糸を手繰りつつ入ることを薦めたのです。

アリアドネの糸

ラビュリントスとは、ミーノス王が工夫ダイダロスに建造させた脱出不可能と言われる迷宮。パーシパエーと雄牛の間に生まれた子・ミノタウロス(アステリオス)を閉じ込めるためにつくったこの迷宮に、テセウスはミノタウロスを殺すため侵入しました。

無事にことを成し遂げた後、テセウスはアリアドネに渡された糸玉のお陰で脱出に成功します。この神話から転じて、「アリアドネの糸」とは問題解決の糸口、手引きを指すようになりました。

脱出不可能とされた迷宮からテセウスが脱出できたのは、アリアドネの糸があったから。

それでは、この小説『迷宮』におけるアリアドネの糸とは、一体何だったのでしょうか?

心の迷宮を辿る物語

物語の語り手・僕は、30代半ばで、弁護士事務所に勤めている。小さい頃に母親に捨てられ、親からの愛情を知らずに育った彼は、周囲に彼を理解してくれる人を見つけられなかったことから、頭のなかにもうひとりの自分を生み出した。名前は“R”

成長するに従いRと触れ合うことも少なくなっていった主人公、とはいえ、決してこの世の中を認めたわけじゃない。ただ、迎合するくらいの世渡りを覚えただけだ。嫌いな人間と関わることがあっても、嫌な気持ちをそのまま口に出すことはしない。そうすることが、一番楽に社会生活を送れることを知っているからだ。

あるとき、主人公は中学時代の同級生・紗奈江と出会い、そのまま彼女のアパート向かい体を重ねることになる。奇妙な出会いだったし、紗奈江も風変わりな女だった。現実世界に生きているとは思えない、どこか浮世離れした存在。

紗奈江

翌日、主人公は会社帰りに探偵を名乗る男につかまった。そこで紗奈江の素性を聞かされることになる。探偵によると、紗奈江はかつて世間を騒がせた迷宮入り密室殺人事件こと「日置事件」の、唯一の生存者であるとのことだ。

日置家は、醜く平凡な夫とこの上なく美しい妻、家に引きこもり妹に性的な接触を試みる兄、そして母に似た美しい妹・紗奈江の4人家族。美しすぎる上、ただいるだけで男をだめにしてしまう魅力を備えた妻を信用できない夫は、自分の行動がおかしいことだと自覚しながらも、外出を阻むため妻の自転車を分解したり、家中に防犯カメラを設置したりと、徐々に狂っていく。

事件は不可思議な状況で起きた。人が通れる大きさではない小窓を除いた全ての窓やドアは施錠され、なおかつ全ての出入口には防犯カメラがセットされているこの家で、一家が惨殺された。死亡したのはその家の夫・妻・兄。唯一生き残ったのは、妹だけだった。かなり体格のいい人間に暴力を振るわれ、刃物で殺害されたと思われるのに、現場は完全な密室。生き残った妹にできる犯行ではなかった。

この事件が折鶴事件と呼ばれる所以。惨殺現場には色とりどりの折鶴が散りばめられ、その中心には裸の妻の遺骸があった。まるで、折鶴を身に纏うように着飾られていたのだ。この写真を見た者は、あまりの美しさに息を呑むことになる。そして、この事件に絡み取られる。

深い闇

巻き込まれるようなかたちで主人公は日置事件について調べ始める。紗奈江は被害者家族唯一の遺族だ。決して非難されるような存在ではない。しかし、紗奈江は生きづらさを覚え、死を願う。いや、望んでいるわけではないのかもしれない。生きようとしていないだけだ。

やがて主人公は気づく。紗奈江はあの事件から、いや、事件が起こるずっと前から、心の迷宮に迷い込んでいるのだと。主人公もそうだった。ずっと心の迷宮に閉じこもっていたのだから。やがて主人公は、迷宮の中にRという存在を生み出す。Rと対話し、お互いを認め合うことでなんとか生き延びることができた。主人公は迷宮を脱したのではなく、迷宮で生きる術を身につけたのかもしれない。

しかし紗奈江は、出口を求め彷徨い続けている。

迷宮の出口

やがて主人公と紗奈江は核心に迫る。紗奈江が語り始める真相に、絶望を知る主人公。事件が起こる前から、すでに終わっていたことを知ったのだ。今となっては何が事実なのかわからない。紗奈江が語った真相が事実であるという保証もない。

それでも主人公は、紗奈江とともに生きていくことを決めた。自分のような人間でも、彼女の側に、いないよりはマシだろうから。

ふたりは、それぞれの迷宮を脱することができたのか。お互いが、お互いのアリアドネの糸となったのだろうか。

強い光を感じる物語。それゆえに、闇も深く。

中村文則作品にしてはめずらしく、結末に光が差し込んでいるように見える本作。「めでたしめでたし」で終わるわけではないけれども、ふたりが歩む先には絶望より希望が見え隠れしているように感じ取れませんか?

・・・とはいえ、私にはふたりが迷宮を脱したようには見えません。ふたりが出会いは、お互いにとってのアリアドネの糸を見つけたことと同意ではあると思います。しかし、迷い込んだ迷宮はあまりにも深すぎた。出口に結びつけたアリアドネの糸、その反対側の端っこを掴んだところ…。それが本書の結末なのではないかと私は思います。

迷宮の出口までは、まだまだ果てしない道のりが残っている。しかし、確実に前に進んでいるのがわかる。

そんな一筋の希望に、本作の優しさを感じずにはいられません。

希望

物語の最中、あの震災について語られるシーンがあります。「迷宮」はあの震災後に書き始められた物語。中村文則は、今まで以上に光について描かねばと思ったそうです。例え、光が強くなればなるほど、闇が深くなるとしても。

震災後、私たちは、日本は、限りなく広く深い迷宮に迷い込んだまま、抜け出せずにいます。まだアリアドネの糸は見えません。そんな私たちにとって、「迷宮」はある種の答えを提示してくれているのかもしれません。

出口は必ずある。だけど、見えない糸を手繰って出口に辿りつくには、まだまだ時間がかかるんだよ、と。

参考記事:
【中村文則『迷宮』刊行記念インタビュー】得体の知れない引力に動かされて

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