『事実』と『真実』、ごっちゃになってませんか?事実は常にひとつ、真実はひとりにひとつ。

何が事実で、何が真実?

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「事実」と「真実」の違いを説明できますか?

最近哲学を学んでいます。すぐに実践できる実学を修得することに腐心するあまり、何だか追われるように生きているなと疲れ始めたのが学ぶきっかけだったのですが、考え方・問いかけ方を学ぶ「哲学」は、簡単に答えを求めがちな昨今、とてもしっくりくる学問だなと感じています。

さて、そんな哲学を学んでいる際、気になる言葉が出てきました。

「事実」と「真実」の違いについてです。

何が事実で、何が真実?

みなさんはこのふたつを、明確に分類することができるでしょうか?私はこの言葉を使い分けているのですが、人と話をしているとその定義でぶつかることがままあります。

そこで本記事では、「事実」と「真実」の違いについて考察していきたいと思います。ちなみに、辞書的な定義や哲学的解釈に力を借りながら執筆しますが、必ずしもここでの考察が正しいとは限りませんのでご注意を。それこそ、後述する「真実のひとつ」に過ぎないかもしれません。

どのように定義されているのか?

まずは辞書的な定義がどうなっているか、デジタル大辞泉から引用させていただきます。

じ‐じつ【事実】

[名]
1 実際に起こった事柄。現実に存在する事柄。「意外な―が判明する」「供述を―に照らす」「―に反する」「―を曲げて話す」「歴史的―」

2 哲学で、ある時、ある所に経験的所与として見いだされる存在または出来事。論理的必然性をもたず、他のあり方にもなりうるものとして規定される。

[副]本当に。実際に。「―一度もその人には会っていない」

しん‐じつ【真実】

[名・形動]
1 うそ偽りのないこと。本当のこと。また、そのさま。まこと。「―を述べる」「―な気持ち」

2 仏語。絶対の真理。真如。

[派生]しんじつさ[名]
[副]本当に。確かに。「―情けない思いをした」

辞書からではあまりピンとこないかもしれませんね。どちらも「本当のこと」といった曖昧な様相を呈しています。

しかし、「事実」がどこか断定的な説明であるのに対し、「真実」にはもうちょっとふわっとした印象を持たないでしょうか。もうちょっとわかりやすく言いますと、『事実は客観的・真実は主観的』なものと捉えるとわかりやすいかもしれません。

それではひとつ、例を示しましょう。

事実は常にひとつ、真実はひとりにひとつ

あなた(X)の家で殺人事件が起こりました。現場にはあなたと友人A、友人B、被害者となった友人C、そして加害者となった友人Dがいます。つまりその部屋には5人の人間がいることになりますね。

それでは、ここでの「事実」に当たる事柄は何でしょうか?

「あなたの家で、友人Dが友人Cを殺害した」

何があっても揺るがない事実はこれのみです。別に心理テストや推理クイズを出しているわけではありませんので、文章通りに理解してください。

何が事実で、何が真実?

さて、それでは「真実」に当たる事柄には何があるでしょうか?

「あなたの家で、友人Dが友人Cを殺した」

もちろんこれも真実ですが、真実には主観が混じります。

友人Aはこのように供述しました。
「Xの家で遊んでいたときに、元々折り合いが良くなかったらしいCとDが突然喧嘩し始め、逆上したDがたまたま現場に置いてあったカッターナイフを手にし、Cの首を切って殺してしまった。Dはその後放心しているようだった。」

次に、友人Bはこのように供述しました。
「Xの家で遊んでいたときに、Cが吐いた悪態にイラッとしたように見えたDが、突然近くにあったカッターナイフを振り回し、それがCの首に触れてしまい、Cは出血多量で死んでしまった。Dは憔悴しているようだった。」

加害者のDはこう供述しました。
「あまり仲の良い友人ではなかったXの家に、友人B、Cと集まり遊ぶことになった。Cとは小学校以来の友人だが、最近はXと仲良くしているようで、俺とは疎遠になっていた。遊んでいる最中、Cが突然小学生時代の俺の失敗談について話し始め、皆が嗤った。どうやらCがXに注目されたかったためにこの話をしたと感づき、どうしようもなく苛立った俺は、近くにあったXのカッターナイフの刃を出してCに向け、苛立ちを吐き出した。

それでも俺をおちょくってきたCとXに腹が立ち、カッターナイフを振り回してしまった。その刃がCの首元に触れたかと思うと、首からは鮮血が吹き出し、あっという間にCは死んでしまった。なぜこんなことになったのか俺にもよくわからない。ただ、俺がCを殺してしまったのは事実です。」

4人のそれぞれの供述。その場しのぎで言った言葉もあれば、あとで考えたら「そうじゃなかったかも…」と思うこともあるでしょう。しかし、それも含めてそれがその人にとっての「真実」となるのです。

何が事実で、何が真実?

一応聞いてみましょう、あなたはどう供述しますか?

「・・・・・・・・・・・・・」

今答えたこと、それがあなたにとっての「真実」です。

つまり、『事実は常にひとつだが、真実はひとりにひとつある』と考えられるんじゃないでしょうか。

起こっていることは全て正しい

私が思うに、ほんの少しでも主観が混じってしまうとそれは事実でなくなります。かといって混じりっけなし100%の事実というものが存在するのか分かりませんが、少なくとも「私はこう思う」「私にはこう見える」という概念が混じったものは事実ではないと考えます。

何故ならば、「私はこう思う」ことが、他の誰かにとってはそう思えないことかもしれないからです。事実は「誰が見ても変わらないこと」と定義するといいかもしれませんね。

「起こっていることは全て正しい」という言葉をご存知でしょうか。これは、実際に起きた出来事の存在を否定することはできないということです。ここでの「正しい」とは道義的に正しいとか、ある種の正義を示しているわけではなく、起きていることは疑いようのないことなのだから認めなければならないですよ、という意味だと捉えてください。

何が事実で、何が真実?

テレビでニュースを見ていて思うのですが、報道にも事実と真実の2面があります。例えば凄惨な事故が起きたとします。その場合、「事故が起きて◯人が負傷し、△人が亡くなった」というのは「事実」です。しかし、コメンテーターや報道記者の考えが少しでも含まれた事故が起きる原因の推察や感想は「真実」に過ぎません。

完全に間違っているから信じるなというわけではなく、ひとりの人間というフィルターを通して見た真実であって、それが100%正しいことではありません。全てを疑って生きるのは辛いことですが、安直に信じてしまうのは非常に危険です。世間に広まる事件・事故などの真相は、多くの人が信じたことが次第に力を持って「揺るがぬ真実」にレベルアップするからですね。

そうして真実は造られるのです。

おわりに

言葉は便利ですが、使い方によっては凶器にもなります。言葉で人を殺すことができるのですから。

何かトラブルに巻き込まれたときでも、何が事実で何が真実なのか見極める能力があれば、あらぬ誤解で消耗せずにすむかもしれません。起こっていることは全て正しい。しかし、相手の主観が入り混じってねじ曲げられた勝手な真実につきあう必要はありません。

本質はどこにあるのか。虚実入り混じった情報に埋もれそうになっている昨今、真贋を見抜く力が重要になってきているように思います。誰でも簡単に情報を手に入れることができるようになり、物事を隠し通すことは難しくなってきました。しかし逆に、大量の情報をばら撒くことで何が事実かを包み隠すこともできるようになりました。

どれだけ有用な情報を手に入れられる術があったとしても、何が事実で何が真実なのか、何が本物で何が偽物なのか、それを見抜けなければむしろ弊害にすらなるのですから。

何が事実で、何が真実?

『たった一つの真実見抜く。見た目は子供、頭脳は大人!その名は…名探偵◯◯ン!!』

こんなキャッチフレーズのアニメがありますよね。実は私、このアニメが好きではありません。基本的に探偵モノがあまり好きではないのです。ここまで読んでいただければわかるかと思いますが、人の人生の途中、しかも数日だけ関わった程度の探偵ごときに見抜ける真実なんて、ほんの一部でしかありません。

事実と真実を混同してはならない。

読者の皆さんがもし使い分けていなかったのであれば、ぜひこれを期に「事実」と「真実」の違いについて考えてみてください。私が述べた使い分けが100%正しいとは限りませんよ。真贋を見抜くのは、あなた自身です。


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