又吉直樹『火花』 共感に依存せず孤独と向き合う強さと、世間に迎合する強かさの間に生まれる火花

又吉直樹『火花』

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芥川賞も夢ではない、ホンモノの文学がここに

「芸能人が執筆した本」に貼られる負のレッテルの厚みは尋常ではありません。内容如何に関わらず特定のファン以外からの評価は極端な低空飛行となり、夥しいバッシングの嵐を巻き起こし、瞬間風速的な話題を集めたかと思うと、あっという間にブックオフの100円コーナーの常連になるのが定例コースです。

また「芸能人が執筆した」といっても実際に彼らが手を動かして書いているわけではなく、ブックライター(ゴーストライターという言葉はキライです)がインタビューなり取材したものを書き起こしているのが普通です。日々忙しくしている芸能人が慣れない執筆なんてするわけないんですが、どうも本人が書いていると信じて疑わない読者が多いし、自分で書いていないことがわかったときのバッシングも酷いですよね。

ボイスレコーダー

とはいえ、文才ある芸能人がきちんと自分で執筆しているケースもあります。お笑い芸人で例を出すと、スピードワゴン・小沢一敬「でらつれ」、アンジャッシュ・渡部建「エスケープ!」、劇団ひとり「陰日向に咲く」「青天の霹靂」などがありますね。芸人というフィルターを外して読めば、そこらの小説と遜色ない、何ならよっぽど面白い内容になっていることに気づくはず。ハズレも多いですが、中には名作と呼んで差し支えないものもあるんです。

文学芸人として人気のピース・又吉直樹が初めて執筆した小説「火花」は、まさにその名作の冠が相応しい傑作でした。

まずは、あらすじからご紹介していきましょう。

あらすじ

花火

僕(徳永)が中学以来の友人と組んでいるお笑いコンビ「スパークス」は、熱海の花火大会で開演前の余興を担っていた。予定が後ろにずれ込んだため花火大会が始まっている中で漫才をさせられ、僕達の漫才は花火の爆音にかき消されてお客さんに届かない。意気消沈する僕達の後に登場したお笑いコンビ・あほんだら。すれ違いざま、コンビのひとり・神谷は僕にこう言った。

「仇とったるわ」

終演後に飲みに誘ってくれた神谷と話している内に、自分なりの漫才哲学をきちんと持っている神谷に深く感じ入った僕は、その場で店員を証人に師弟関係を結んだ。どんなことがあっても自分の哲学を曲げない神谷は、あらゆるところでトラブルを巻き起こす。自分に自信を持てない僕は、自分に忠実に生きる神谷を心から尊敬していた。

同世代が次々と売れていくのを尻目に、僕たちスパークスも、神谷のあほんだらは売れる兆しがなかった。神谷の生き方は、きっと正しい。でもそれは神谷にとって正しいだけで、僕にとって正しいのかはわからない。

僕はその後、深夜番組に出演させてもらったり、ライブイベントにも呼ばれるようになったりしている内に、少しずつ売れるようになっていった。僕は神谷と違い世間を無視することができなかったから、少しずつ世間に迎合していったのかもしれない。自分に忠実な神谷は決して売れることなく、転がり込んでいた女性の家から追いだされることになる。僕は神谷に何とか笑ってもらいたくて、必死に漫才をつくる。

しかし神谷は、普段の何気ないやりとりで笑ってくれることはあっても、僕らの漫才で笑ってくれることはなかった。

借金まみれ

神谷は借金を果てしなく膨らました挙句、行方をくらましてしまった。僕らは次第に売れなくなっていった。ずっと一緒にやってきた相方の彼女に双子の赤ちゃんができ、僕たちは10年続けたお笑いコンビを自然な流れで解散し、そして、芸人を辞めた。

会社員として社会生活を送るようになった僕の前に、神谷は再び現れた。久しぶりに会った神谷は、行方不明になっていた間にも自分の笑いを追求していたのだ。

しかも、想像を絶する、衝撃的な姿でーーー

文章で笑いを表現するということ

物語で人を泣かせるのは簡単です。悲恋であったり、最愛の人を失くしたり、一旦どん底に叩き落しておいて、それから励ますような言葉を定期的に差し込んでやれば、大体の人は泣きます。

しかし、物語で人を笑わせるのは難しいんですよ。往々にして笑いのポイントは人によって大きく違いますし、笑ってしまうと著者の思惑に負けた気分になりますから。笑いをこらえようとする人までいますからね。

笑ってもらう

この小説の語り手は漫才師です。キーとなる人間も笑いを追求する漫才師。当然読む前から、ある程度笑わせようとしてくるのがわかっているはずですよね。数多く出ている小説のレビューを読むとわかりますが、皆さんしっかり笑わされています。

メインとなる徳永と神谷の会話は、全てがボケとツッコミで成り立っています。というのも、漫才師は常に面白くなければいけないという不文律があるからです。

神谷はこう語ります。

「漫才師である以上、面白い漫才をすることが絶対的な使命であることは当然であって、あらゆる日常の行動は全て漫才のためにあんねん。だから、お前の行動の全ては既に漫才の一部やねん。漫才は面白いことを想像できる人のものではなく、偽りのない純正の人間の姿を晒すもんやねん。つまりは賢い、には出来ひんくて、本物の阿呆と自分は真っ当であると信じている阿呆によってのみ実現できるもんやねん。」

笑いを追求し、笑いに生きるとはなんと過酷なことか。神谷は自分の笑いを究めんとすることに疑いの余地もないし、自分を徹底的に信じています。彼が唯一基準としているのは「面白いかどうか」のみ。凡庸を激しく嫌い、型にはまることを良しとしない彼は、究極のアナーキストなのでしょう。

共感を否定する強さ

まずは、以下の記事を読んでみてください。
ピース・又吉、小説『火花』に込めた思い「”こうあるべき”は芸人じゃない」

又吉直樹が感じていることと同様に、私は「共感」を過剰に求めるこの世の中に辟易しています。

物語の中で、神谷はこう述べました。

一つだけの基準を持って何かを測ろうとすると眼がくらんでしまうねん。たとえば、共感至上主義の奴達って気持ち悪いやん?共感って確かに心地いいねんけど、共感の部分が最も目立つもので、飛び抜けて面白いものって皆無やもんな。阿呆でもわかるから、依存しやすい感覚ではあるんやけど、創作に関わる人間はどこかで卒業せなあかんやろ。他のもの一切見えへんようになるからな。これは自分に対する戒めやねんけどな」

(中略)

「せやな。だから、唯一の方法は阿呆になってな、感覚に正直に面白いかどうかだけで判断したらいいねん。他の奴の意見に左右されずに。もし、俺が人の作ったものの悪口ばっかり言い出したら、俺を殺してくれ。俺はずっと漫才師でありたいねん。この珈琲美味いな」

今、マーケティングの世界では、共感や感情移入を意識した手法が当たり前になっています。一昔前のような記号消費はもはや通用しなくなっていますよね(人からこう見られたいからベンツを買う、みたいなことです)。

確かに生活必需品や日常的に利用するサービスなどは、近しい人や信用できる人との共感で選ぶことはあるでしょうし、その方が結果的に失敗しにくいとは思います。

共感至上主義

ですがそれを嗜好品にまで求めるのって、いかがなものでしょうか?創作物はそのほとんどが嗜好品でしかありません。火花という本もそうですし、テーマとして扱っているお笑いもそうです。人々が皆それを好きである必要はないし、極端な話、自分だけが好きであればいいものが嗜好品です。

神谷の主張は、おそらく正しい。

孤独と向き合う強さと、世間に迎合する強かさ

究極のお笑いという嗜好品を求める神谷の飽くなき挑戦は、創作を志す若者にとって猛毒となり得るもの。若い頃は反体制的であったり、反組織的であったり、反大衆的であったりするものですよね。悲しいかな、現実を知らない。世間の厳しさを知らない。だから、アナーキストを貫く神谷を師匠として仰ぐ徳永の気持ちはよくわかります。

しかし徳永は、そこまでアナーキストになれなかった。小さな頃から憧れていたお笑い芸人として大成するためには、世間が求めている笑いを理解し、求められたものを提供するという、世間に迎合していく強かさが必要なことに気づいてしまったから。

神谷のように孤独であることを怖がらず、世間全てを敵に回してもびくともしない確固たる信念を持って挑む「お笑い」は、そこに笑いの真髄があるのだとしても、成功と直接結びつくわけではないことを知ってしまったから。

アナーキスト

徳永はよくも悪くも平凡な人間だったんですね。そしてそれは、否定されるべきことではない。ほとんどの人は平凡な人生を送っているし、平凡を楽しめるのはこの上ない才能でもあるのです。

現実から逸脱せざるをえない人がこの世にはいます。逸脱を美学としている内はただの自己陶酔でしかない。逸脱せざるをえない人とは、望む望まざるに関わらず、生きているだけで逸脱してしまう人のことを指しています。

徳永は前者、神谷は後者だった。ただそれだけなのです。

不器用にしか生きられない、という才能

非凡であることは、本人にとって必ずしもありがたいものではないのかもしれません。こうやって生きることしかできない。そんな不器用な才能を与えられただけなのかもしれないのです。

物語のラストシーン。誰も予想だにしないこの展開に、神谷が「こうやって生きることしかできない」人であることを知るでしょう。才能はうまく使いこなせなれば、足枷になる。

逸脱せざるをえなかった人や常識から弾かれてしまう人を、いくら共感できないからといって否定してはいけない。無理に肯定する必要もない。ただ、存在は認めてほしい。

存在は認めてくれ!

前述の記事で、著者の又吉直樹はこう述べています。

「共感できるものしか認めないという風潮がめっちゃあるなと。共感しなくても面白いものはあると思うんです」「共感できないなりに理解してほしい」と語るのは、自身が子どもの頃から「共感を得られるタイプじゃなかった」から。「存在は認めてくれ」「おったらあかんやつにするな」という思いがあり、本作についても「『あったらあかん小説』にもしてほしくない」と言う。

本作を執筆後、「いろんな人がいて、常識から弾かれている人もいっぱいいて。そういう人もいていいし、『無駄じゃない』『生きてていい』って思いたいんやなって思いました。伝えたいというよりは僕自身が」と感じたという

ピース・又吉、小説『火花』に込めた思い「”こうあるべき”は芸人じゃない」より

うまく生きられない人を否定するな。

不器用な人間の、なんと愛おしいことか。

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