映画『子宮に沈める』 もっと人を想う「想像力」を!過剰な自己責任論は誰も救わない。

子宮に沈める

スポンサーリンク
スポンサードリンク

「母性神話」が母親を殺す

以前に以下の記事を書きました。↓
母は「母」である前に「ひとりの人間」であるということ、そして母性神話のウソ

いかに母親となった女性が「母性神話」を信仰する人々に苦しめられているかを痛烈に批判した内容だったのですが、この記事を書くにあたり参考にさせていただいた本があります。それがこちらです。↓

まだ記憶に新しい方もいらっしゃると思います。

2010年の夏、大阪市内のマンションの一室で、3歳の女児と1歳の男児の遺体が発見されました。うだるような暑さの中で折り重なるように死んでいたふたり。母親は風俗店でマットヘルス嬢として働き、子どもを放置して男と遊びまわっていたと報道され、子の親とは思えぬ残虐非道な仕打ちをしたということで、そこかしこから厳しい非難を浴びていましたね。

この本は、事件を追いかけたルポライター・杉山春さんによる渾身のドキュメンタリ作品です。

もちろん育児放棄をした母親に責任が無いと言いたいわけではありません。裁判で懲役30年の実刑判決が下されていますが、特に異論はありません。

問題は、「シングルマザー」や「風俗嬢」という固定のワードをもって、散々に叩く連中がいるということです。

『子宮に沈める』というセンセーショナルなタイトルの映画は、この事件にインスパイアされて撮影された物語(ドキュメンタリではありません)。設定は本事件と近く、ふたりの子供を持つシングルマザーが育児を放棄するまでを淡々と描いています。映画監督によると、「母性神話」によって女性が子宮=母性に閉じ込められてしまうという意味を込めているそうです。

それではまず、映画のあらすじの紹介と所感、続いて映画や事件について「何が問題だったのか?」を述べていきたいと思います。

あらすじ

なかなか帰宅しない夫、俊也を待ちわびる娘の幸、息子の蒼空に「もう少し待とうね」と言い聞かせる由希子。

良き母であろうとする由希子は、家事、育児を1人でこなす毎日。

俊也に別の女の影を感じる由希子は、久しぶりに帰ってきた俊也を自分に振り向かせようとするが拒否され、一方的な別れを突きつけられる。

離婚後、新居のアパートで3人での生活が始まる。若くして結婚したこともあり、学歴や職歴もなく、医療資格受験の勉強をしながら長時間のパートをし、シングルマザーとして2児を養う事になる・・・。

「よき母親」を演じるのに、ただ疲れてしまった。

※ここからはネタバレします。さらに、衝撃的な展開が続きますので、覚悟して読んでください。

子宮に沈める

冒頭で描かれるのは、仲睦まじい家族の風景。

広々としたリビングで遊ぶふたりの子どもたち。てるてる坊主をつくって母親に駆け寄り、うまく描けてると褒められ嬉しそうな長女の幸。まだひとりでは何もできない弟の蒼空にも「大好きな母親のように」世話を焼く姿が微笑ましい。

由希子が丁寧につくるロールキャベツは本当に美味しそうで、華やかなキャラ弁も愛情たっぷり。端から見れば、これほど幸せそうな家族はそうそうないんじゃないか。それくらい幸せで満ちている。由希子は「よき母親」像を体現してようと必死だった。

しかし・・・父親は姿を見せないがどうしたのだろう?

観客の不安は的中する。夜遅くに帰ってきた旦那の俊也と由希子の間には、もう長い間セックスもなくすれ違いばかり。投げやりに「愛してるよ」とつぶやく夫をビンタをかまし、結局ふたりの関係は破綻してしまった。

子どもたちを引き取った由希子は、引越し先で新生活を始める。資格を持たず、社会経験も浅い若い子連れの母親が働けるところは簡単に見つからず、今までどおり「よき母親」でいようとする由希子は次第に疲れをみせはじめる。

そんなとき、高校時代の友人が遊びに来た。派手な見た目の彼女は、どうやら夜の仕事をしている様子。夜泣きする蒼空をあやす由希子に「かわいい、私も子ども欲しいなぁ。母親に向いていると思うんだよね、私。」などと、タバコを吸いながら、蒼空に触れるでもなく話す友人。仕事を探していた由希子は、止むに止まれず夜の仕事を始めることになる。

「よき母親」であるために服装やメイクにも気を使っていた由希子は、見る見るうちに露出度の高い服をまとうようになり、ケバケバしいメイクをするようになる。吸ったことのないタバコに手を染め、子どもがいる家に男を連れ込み、挙句の果てにはセックスを楽しみ始める始末。

ゴミが溜まった部屋

キレイだった家の中も次第にゴミが散乱し始め、片付けるでもなく見て見ぬふりを続ける由希子。だが、子どもたちに暴力は振るわない。ご飯もつくるし着替えもさせる。ただ、少しずつその感度が鈍くなっていく。決して嫌いになったわけじゃなく、只々、もう疲れたのだと…。

それまでと変わらないある日の朝、由希子は尋常ではない量のチャーハンをつくり、「はやく帰ってくるね。」と幸に言い残して家を出ていった。変わらない1日のはずだった。

違ったのは、いつまでたっても由希子が帰ってこなかったこと。

ドアや窓はガムテープで目張りされ、ベランダに出ることはおろか、中扉を抜けた先のトイレや風呂に行くこともできない。甲斐甲斐しく蒼空のおむつを交換しようとするもうまくいかず、あやすことでご機嫌をとろうとする幸。「よき母親」であった由希子の代わりを務めようとしているのか、水で粉ミルクを溶かそうとするも、所詮水では溶かせない。次第に冷蔵庫から食べ物はなくなっていき、缶詰を開けようとするも手にとった包丁では開けることは叶わず、少しだけ空いた穴から水分を摂ることしかできなかった。

ある日、蒼空はしゃべらなくなった。動かなくなった。幸には「死」がわからない。

ついに食べ物がなくなり、幸はマヨネーズを直接吸い始める。なくなったあとは、容器に水を入れてよく振り、何度も飲む。何度も、何度も…。粘土でつくった食べ物を水で流し込む幸は、もうまともに考えることができなくなっていたのかもしれない。

ガムテープを剥がす音が聞こえる。

由希子が帰ってきた!幸はほとんど残っていない力を振り絞って立ち上がり、由希子の下に駆け寄った。一言も声を発しない由希子は、蒼空に湧くウジ虫を払いのけ、大量の洗濯物とともに洗濯機で洗いはじめる。部屋のゴミを片付け、窓を開けて換気し、風呂の水を貯め、そして幸を沈めて殺した。

嗚咽混じりに呆然とする由希子は、そっとお腹に手をあてた。子を成しているのだ。今、ふたりの子を殺したのに。

幸せだった頃から編み続けていた赤いマフラーの続きを編みながら、出来上がった部分を、土気色の幸とガムテープでぐるぐる巻きにされた蒼空に優しく巻き付ける。

椅子の上で脚を開いた由希子は、鉤棒をそっと陰部に差し込んだ。この期に及んで自慰行為を?……いや、成した新しい命を終わらせるために……。

最後。

鮮やかなグリーンのレジャーシートに並べられた幸と蒼空は、まるで冒頭のロールキャベツのように包まれる。

愛情深く、丁寧に。

努力の糸を張りすぎてはいけない

いかがでしょうか、悲痛すぎて観るのがイヤになったかもしれません。実際私も、幾度となく目を逸らしました。

食べ物がなくマヨネーズを吸う幸の姿や、おそらく由希子が連れ込んだ男に口淫している姿を目撃した幸が、幼い弟の服を捲って口淫もどきをしようとしている姿は、とてもじゃないですが直視できませんでした。

終始一貫してバックに流れる音楽はなく(それはスタッフロールにも引き継がれています)、画面に映し出されるのはひたすら家の中のみ。途中でピクニックに行くかのような華やかなお弁当をつくるシーンがありますが、レジャーシートを広げてお弁当を囲んでいるのは家のリビングであったことが、妙に印象に残っています。

思うに、由希子は「よい母親」を演じていましたが、実際のところかなり無理をしていたことが伺われます。おそらく家族や友人など、気軽に子育てについて相談できる人がいなかったのでしょう。旦那は離縁していることからもわかるように、もはや期待はできませんよね。

だいぶ理解されることは増えてきたとはいえ、まだまだ「子育ては母親」といった古臭い考え方を押し付けてくる人は多いですから、この母親が「よき母親」であるがために孤軍奮闘していたことを誰が責められるでしょうか。

そして、努力の糸は張りすぎるとプツンと切れてしまうもの。

由希子はまだ若かった。夜の仕事でもまだ客は取れるし、チヤホヤもされる。それにまだ若いんだから少しくらい遊んでもいいじゃないか。そう思ったとしても不思議はないかと思います。

もちろんだからといって育児放棄していいというわけではありませんが、彼女だけを責めるのは酷ではありませんか?

「何が」問題だったのか?

では、この事件は一体何が問題だったのでしょうか。

決して、由希子と俊也が離縁したことでも、シングルマザーとなったことでも、風俗嬢として働き始めたことでもないと私は思っています。

まずこの事件は「特殊な状況で起こった、特殊な人間が起こした事件ではない」ということを、声を大にして言っておきたい。このことについて、色々ブログさんが書かれたレビューにわかりやすい解説がありましたので、憚りながら引用させていただきます。

「育児放棄をした母親一人が悪者だ」

「キャバクラで働いていて、ホスト通いのバカ女」

「子供たちはどんなに辛かったろう」

「行政は何をしているんだ」

という断片は、同時に

「ゴミ捨ての時間や分別が厳しく、時間外に捨てさせて貰えなかった。=ベランダに大量のゴミ袋、家の中はゴミ屋敷状態だった」

「託児所はどこも定員オーバーで預かってもらえない=常に自宅に子供を置きざりにする日常だった」

「子持ちのシングルマザーは部屋を貸してもらえない=キャバクラに勤め、そこの寮としてマンションの1室に住む方法が1番簡単だった」

「寮住まいでは住民票が無い=公的支援へのハードルがグッと上がる」

「子供がうるさいと近所から苦情が多かった=児童相談所や警察に何度も通報されていた」

断片と重なり、心に深い爪痕を残す。

「ゴミ捨ては時間分別厳守」

「うるさい。くそガキ死ね。」

「自治会に参加できないなら出て行け」

「住民票がなければ援助は受けれません」

「何度も家庭訪問しましたがお留守でした」

といった声は、何もこの家族だけが経験した出来事ではないだろう。誰もが被害者になりうるし、誰もが加害者だ。

色々ブログ 映画「子宮に沈める」見てきました。より
(改行は筆者によるもの)

母性神話の嘘

誰もが被害者になりうるし、誰もが加害者になる。この「想像力」に欠ける人間が、思いの外多いことに驚かされます。言うならば、全ての人間は被害者予備軍だし、全ての人間は加害者予備軍なんですよ。どちらにも当てはまらない一般人なんてものは存在しません。

環境に恵まれ、うまく子育てができたと自負している人から見れば、この家族は欠陥品のように見えるでしょう。しかし少しでも歯車が狂えば、崩壊は自分家庭にすら起こりうることなんだと想像することができない人が、どうも母親バッシングを繰り返しているように見えます。

この映画を観て只々母親をバッシングするような人と私は、どうも折り合えそうにありません。しかし、そうやってバッシングしている人は、何かあったときに自分のくだらないプライドから人を頼ることができず、結果最悪な事態を引き起こしてしまうんじゃないかと思ってしまいます。

いつでも自分は由希子のようになってしまえる、という危機感をどこかに持っている方が生きやすいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

これから子育てをしようとしている方や、自分なりにうまく子育てができたと思っている方に、ぜひ観てもらいたい映画です。そして願わくば感想を聞きたい。

スポンサーリンク
スポンサードリンク
スポンサーリンク
スポンサードリンク