【書評】山内マリコ『アズミハルコは行方不明』 なにをしていいのか、わかんないからパチンコへ

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サバービア文学の旗手・山内マリコ

女子でやるサッカーの試合ごめんねが飛び交うばかりで男になりたい

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いきなり余談ですが、著者の山内マリコさん、超絶僕好みの顔立ちです。サイン会やトークイベントでお会いしたことがあるのですが、そのキュートさと口舌の滑らかさにメロメロにされました。
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一作目となる「ここは退屈迎えに来て」で描かれたサバービア(郊外)の感度が凄まじく、郊外で育った者として共感度は半端なかったことを覚えています。地方都市というものは、どうしてこんなに寂しさを匂わせるのでしょう?しかも、若さという最大の武器を失いつつある人間がもう戻ってこない若さを名残惜しむかのように生きる姿は、醜く、愚かで、少しかわいい。

そんな山内マリコさんによる2冊めの著書が、この『アズミ・ハルコは行方不明』。なんとも印象的なタイトルは、読み終えた今、「ああ、これしかないよね」と唸るようなセンスでした。不吉なイメージの言葉ではありますが、前作と同じくサバービアの悲哀を描いたこの著書では、行方不明になるということが肯定的に捉えられているようで新鮮に感じましたね。

郊外で生まれ育ち逃げるように都会へ出てきた人にとっては、共感と感嘆の嵐となる本でしょう。むしろ都会から一歩も出たことのない人に読んでもらい、この絶望感を味わってみてほしいと心底思います。

サバービア・ストーリー

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舞台はどこにでもあるような地方都市郊外。

中学の同級生である愛菜とユキオは成人式で再会した。特に恋愛模様があったわけでもないが、何となくの流れで関係を持ち、何となく付き合っているような関係になった。

少しだけ絵を描くのが上手な学は、愛菜を介してユキオと交流するようになる。おすすめされた映画「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」を観て心を揺さぶられたことから、覆面路上アーティストのバンクシーに憧れ、意気投合したユキオとユニット“キルロイ”を組んで路上パフォーマンスに明け暮れる。

行方不明のポスターに載っていたアズミハルコという女性にインスピレーションを受け、ステンシル技法を使ったアート作品を広めていく内に、少しずつうら寂れた町に活気が宿る。

安曇春子は仕事を辞め無職になってから、家事手伝いのプロとして実家暮らしをしていた。なんとか潜り込んだ小さな会社の事務職として働き始めたが、家族経営で成り立つこの会社の経営陣は、たいして仕事ができるわけでもないのに春子と先輩の吉澤に仕事を押し付け、挙句の果てにはセクハラ三昧。

くさる春子は幼なじみの曽我と再会し、何となく関係を持ち、何となく付き合っているような関係になる。あるときから曽我と連絡が取れなくなり、いつの間にか最近結婚しばかりの同級生・ひとみと不倫をしていることを知る。

嫌気がさしてもうどうでもよくなった春子は、キャバクラで人気者だった同級生の今井と出会い、そして春子は行方不明となった・・・。

なにしていいかわかんなくてパチンコ

郊外で生きるやるせない若者の悲哀は、29ページの終わりでシンプルに書かれています。

同級生はみんなここが好きだ。地元サイコ-と恥も外聞もなく言い合って、ネットもせず、実家暮らしに満ち足りている。車選びで個性を表現、休日はショッピングモールに集合。そんで時間がなにをしていいのかわかんなくてパチンコ。一人暮らしの名古屋でふらりとパチンコ屋に入るのと、地元でゾンビみたいにパチンコ屋に通うのとでは意味が全然違うんだよ、とユキオは思う。

29ページより

僕が忌避している郊外の風景が、こんなにコンパクトな言葉にまとめられていて驚きました。これが嫌で逃げてきたようなものですから。それにしても「なにをしていいのかわかんなくて」というフレーズは素晴らしいですね。この後にはパチンコが続いていますが、他にもいろんな言葉が当てはまります。

ギャンブル、キャバクラ、ドラッグ、そしてセックス

それがやりたいから、じゃなくて、何していいかわかんないから、という感覚こそが郊外の悲哀を示しているような気がします。

ちなみに本の第3部タイトルが『さびしいと何しでかすかわかんない』なのですが、この「さびしい」という感覚を恐れる気持ちが、郊外で生きる若者の根本にはあるんじゃないでしょうか。

新しいつながりを求めず、閉じた社会で狭く生きるのは、さびしさを感じなくて済むからなのかもしれません。とはいえ、そのつながりは決して濃いものではないんですね。ちょっとしたきっかけでプツンと切れてしまうし、元々接着が弱いからかすぐに引っ付いたりもするんです。手軽にさびしさを埋められるし、ウザくなったらすぐ切れる、その程度の関係性をゆるく維持するのが楽なんでしょう。

この本を読むとよくわかります。会話するシーンをよく読んでみてください、全然話が噛み合っていないんですよ。なのになぜか通じている。結局何を話しているかは大して重要じゃなくて、気の合う(はずの)仲間とコミュニケーションを取っていること自体が大事なんですね。

それこそ何だかさびしいと思いますけれど。

なにをしていいのかわかんなくても、生きていかなくちゃならない

かつて少女だった女たちは、悲観し、絶望し、諦観し、そして行方不明になる。

自分は特別な人間だと思っていた。でもそれは若さが担保してくれていた幻想だったことに気づく。自分が代替可能な人間だったことに気づく。いつまでもこんなところに縛られていちゃいけない。脱出しないといけない。じゃないと、なんで生きてんのかわかんない。

山内マリコの作品は、やっぱり女の子のためのものなのでしょう。明るい希望の光はまったく見えていないけれど、彼女たちは何とか手探りで前に向かっているように見える。

それに対して男たちは情けないし、バカみたいに踊らされてあっさり打ち砕かれていく。なのにケロッとしているんです。この清々しさ(=バカさ)には呆れるほかない。

描かれているのは友情なのか愛情なのか、果たしてそんな価値のあるものなのかもよく分かりません。でも人間っていうものは、そんな言葉の意味をよく知らなくても、感覚で生きていけるものなんですね。

なにをしていいのかわかんなくても、生きていかなくちゃならないですから。



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