東浩紀『弱いつながり』他者を理解しようとしなくていいし、もっと気軽に無視していい。

弱いつながり

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読みやすいが、果てしなく奥が深い

もう何度読んだかわからない、この『弱いつながり』。思想家・東浩紀の著書の中では抜群に読みやすいと話題の本書ですが、文章は平易でも中身はかなり濃くなっています。それこそ代表作の一般意志2.0と深さは変わらないんじゃないかと思います。

哲学者や思想家なんて、難解な専門用語を駆使してまわりくどい言い方で煙に巻いてくるというのが一般的なイメージかと思いますが、今まで何ども哲学書にチャレンジしてきたけれど、その度心折れて断念してきたような方にぜひこの本は読んでもらいたい!

私がこの本を手にとったのは、『弱いつながり』というタイトルではなく、その下に書いてあったサブタイトルに惹かれたからでした。

“検索ワードを探す旅”

旅

これが当時の私に深く刺さりました。というのも私は、固定された場所でレコメンドやサジェストされる言葉だけを弄び、広大なはずのネット世界の一部を堪能するにとどまり、しかもそこに固定され続けることでつながりの強さは増していき、結果とても息苦しい生き方をしていたからなんですね。

グーグル先生に予測されない、新しい検索ワードを自分も見つけたい!そして世界を広げたい!

そんなわけで購入に至りました。人生観を変える名著だと確信しています。強いつながりに苦しんでいる方は、ぜひ読んでみてください。

※本記事は『弱いつながり』と以下の記事を参考に執筆しました。
「弱いつながり」出版 「偶然である出生から考えたい」 東浩紀さん

プロセス(=経路)の価値を再考する

東さんは「検索」という問題について考える際、「経路(=プロセス)」を無くすものとして捉えられています。

この感覚は私も非常に強く持っていて、インターネットがあって当たり前の社会になっていくにつれ、プロセスを軽視し、結果が強く求められるようになってきているんじゃないかと思います。

確かに“検索 → 結果”の流れにはプロセスがありません。厳密には検索で出てくるいくつもの結果から、私たち人間が情報の取捨選択をするわけですが、今流行のキュレーションメディアやサービスは、その取捨選択というプロセスも省いてしまいます。インターネットや情報に対するリテラシーが低いと、その取捨選択がそもそもできないわけですから、キュレーターが確かな目や腕を持っているのなら、信頼を担保することも可能でしょうけれど。

つまり、この直結システムでは“誤配”が起こりにくくなっています。情報をインプットして、検索し、プロセスがあってアウトプットされる。この流れの中にノイズの入る隙間がないんですね。

「ノイズなんていらないじゃないか!」とおっしゃるかもしれませんが、経路がある故に発見できたものを見逃すことになってしまうんです。この事について、東さんはこのように述べています。

人が物事を調べる時には、本来は必ずなんらかの「経路」があります。例えば図書館に行って棚で本を探す。この一見すると無駄な途中の過程、これこそが「経路」です。実はその経路の途中で、何か発見があることが多いのです。だから、検索によって経路が無くなると、人間のクリエーティビティーは下がるのではないかというのが僕の根本的な問題意識です。これはジャック・デリダの哲学から来ているのですが、僕の生理的な感覚でもあります。

 僕はカーナビもニュースキュレーションサービスも同じように「経路」が無くなるので好きではありません。カーナビで目的地まで走るよりは、カーナビに頼らず自分で調べながら運転したい。ニュースキュレーションにしても、毎日新聞なら毎日新聞のサイトに行ってクリックするという経路が大事なのです。そこで目的の記事以外をクリックする可能性があるからです。事前に登録した記事だけが自動で配信されてきても、それ以上の発展がありません。

「弱いつながり」出版 「偶然である出生から考えたい」 東浩紀さんより

インターネットは基本的に「自分が見たいものしか見ないで済む」アーキテクチャですよね。TwitterやFacebookなどのソーシャルメディアも基本的には同じ。情報の取捨選択権が自分にあるということは、見たくないものはこの世に存在しないが如く扱うことができますから。

個人を自由にする便利なツールと思われがちですが、インターネットほど「階級」や「所属」を強力に固定するアーキテクチャはそうありません。固定されればされるほどそのつながりは強化され、がんじがらめになって解けなくなった先には、生きづらい世界が待っているのかもしれません。

村人や旅人じゃなく、無責任な観光客でいよう

この本は「旅」が重要なテーマとなっています。といっても「自分探しの旅に出よう!」なんて唆してくるわけではありません。むしろ自分探しをしたいなら、親や近い友人に聞けばいいと東さんはおっしゃいます。いやまぁ、ホントにその通りです。

旅について語るとき、人は観光客でいることを恥じる傾向があるんじゃないかと思います。かくいう私もそうでした。旅先で深く人と交わり、まるでその国の人になったかのように溶けこむ旅人であってこそ、語り手として相応しいなんて思いがちなのでしょう。

しかし、あえて無責任な観光客であれと東さんは語ります。もちろん「旅人」がダメだと言っているわけではなく、その場所を通り過ぎるだけの観光客であっても、そのプロセスが何かを生み出すのなら十分に価値はあるんです。

観光客でいよう

旅人はそう簡単になれるものではありません。旅人というワードを聞いて思い浮かべるのは、若い独身の男性だったりしませんか?若さや体力の有無、それに場所によっては性別も重要になってきます。ましてや小さな子どもがいるならば、気軽に「旅人」にはなれないものです。

しかし旅、すなわち環境を変えることによって得られる検索ワードは、何も旅人でなくとも得られます。それが観光客なんです。観光客は無責任ですよね、ただ観光地を通り過ぎるだけなんですから。ですがそれが観光客の検索ワードを増やさないかと言えば、そんなことはないでしょう。

目的地まで電車やバスなどの交通機関を使って何時間もかけて辿り着く。わざわざ無駄な時間をかけて遠くまで行かなくても、今はグーグルアースという便利なサービスもあるし、検索すればいくらでも写真は出てくるでしょう。しかし旅と検索には明らかに違うところがあります。

それが経路(=プロセス)です。

インターネットは「距離の概念を無くす」アーキテクチャです。だからプロセスによるノイズが入りにくい。例え観光客として旅をしていても、移動時間や見物の最中で得られる検索ワードは、グーグルアースで見ているときとは全く違うワードであるはずです。

デジタルコンテンツが無料で手に入る時代、これから人がお金を使うのはモノではなく体験であると言われています。体験の極みは、やはり旅。自分の居場所を固定化するネットから一時離れ、大いに時間の無駄である観光に行こう。やっぱり旅先でもネットにはつなぐけれど、そこで検索するワードは机の前では得られない、可能性を広げる言葉でしょうから。

他者のことなんて理解できるはずがない

まず、東さんの他者に対する考え方を引用させていただきます。

僕の思想は、誤解されているのかもしれません。僕はそもそも、他者のことは理解できないし、理解する必要もないと思っています。理解なんてできるはずがないからです。これは娘が相手でもそうです。けれども、他者の存在は、ノイズを通して僕に大きな刺激を与えてくれるから、絶対に必要なのです。人間はみな閉じている。人間と人間は理解し合えない。けれど、理解し合えないからこそ、人は他者を必要とする。そういう考えです。

「弱いつながり」出版 「偶然である出生から考えたい」 東浩紀さんより

私はこの思想にオールアグリーです。というか、こうまで言い切ってくれる方がいることに喜びを隠せません!相手を真の意味で理解することなんて絶対できないはずなのに、なぜか「キミのことは理解できるよ」などと言ってくる人は跡を絶ちません。

これは別に人生や人間そのものを悲観しているわけではなく、元々そういうものなんだから仕方ない、というのが私のスタンスです。他者を理解できないけれど、それをノイズとして認識することで、他者の存在は自分になんらかの刺激を与えてくれるものとして存在し得るはずです。何も、理解し合えないから人とのつきあいを断てとは微塵も思っていないのであしからず。

ノイズを嫌がって自分の好きなことばかりをインプットしていたら、プロセスは変わらないし、結果アウトプットはいつも同じものになってしまいます。だからまわりの環境を変えて、あえていろんなノイズをインプットしていくことが大事なんですね。

環境をわざわざ変えなくても、自分の強い意思があればいくらでもインプットできるだろうって?

それは甘い。人間の意志力はそんなに強くない。自分の能動性を信じすぎています。環境を意図的に変えれば、インプットは自ずと変わります。

インプットが変われば、プロセスに変化が訪れ、アウトプットは意外なものになる。

グーグルに予測されないワードは、ネットが無くしたプロセスから生まれ、プロセスはノイズから生まれる。

レコメンドやサジェストに操られない生き方を実践してみませんか?

日本のムラ社会文化は、ネットでは息苦しくなるだけ

日本人はムラ文化を大事にすると言われていますが、何もインターネットの中にまで持ち込まなくてもいいと思うんですよね。何しろネットは、階級や所属を固定してしまう強力なアーキテクチャなのですから。現実世界よりも密着度の強い関係性をネット上に築きあげてどうしようというのでしょう?

もう一点、東さんの言葉を引用させていただきます。

ツイッターではどんどん発言しろ、その代わり無視されても気にするな、他方自分の方で無視したければどんどん無視しろ、というのが僕の主張で、それが「観光客であること」の要なのですが、なかなか実践は難しいですよね。そもそも、誰も傷つけずに人間関係を維持しようと思うと、どこでも自由に発言できなくなります。
(中略)
「弱いつながり」というのは、目には入るけど、何かいわれても無視できる存在ということです。「空気を読むけど、あえて無視する」。空気がまったく読めないのは困った人ですが、あえて空気を読まないことは一つの選択としてありうる。その選択肢は確保しておかないといけない。

「弱いつながり」出版 「偶然である出生から考えたい」 東浩紀さんより

強いつながりの中ではこうはいきません。何よりも空気を壊さないことが求められますから。緩くつながっている弱いつながりだと、そのあたりが気楽でいいですね。

私がこのリアルもネットも息苦しい世界で、人が持つべき能力は『スルースキル(=無視する力)』なんじゃないかと思っています。

自分のことを理解できない他者が投げかけてきた言葉を、そこまで深刻に受け止めなくていいと思うんです。もちろん関係性によりますし、つきあいの長い友人などであれば話は別ですが、Twitterでフォローされている程度の関係性であれば全力でスルーしていいんじゃないですか。

私はそれが反論や意見であればしっかり聞きますが、匿名で連絡先も明かしていない赤の他人からの誹謗中傷や罵詈雑言の類は完全スルーした上、問答無用でブロックします。ひとつひとつの言動に気を病みすぎだし、そんなに気を使って良い人でいる必要もないと思うんですけどね。

ガッチガチに固まった強いつながりの中で生きていくのは本当につらい。ただでさえリアルの世界で疲れているのに、わざわざネット上で疲れに行く必要なんてないでしょうに。

まとめ

本書の最後には、無責任な観光客であるための五箇条が記されています。本のエッセンスが詰まった至言だと思いますので、手帳にでも書き留めて、折に触れ意識するようにしましょう。

1.無責任を怖れない。
2.偶然に身をゆだねる。
3.成功とか失敗とか考えない。
4.ネットには接続しておく。
5.しかし無視する。

ぜひ、メモしておいてくださいね。

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