映画『悪人』 「何が真実なのかなんて、わかるはずがない」ということがわかった

悪人

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『怒り』と『悪人』

最近刊行された吉田修一の著書『怒り』を読んで、久しぶりに映画の『悪人』を観たくなりました。悪人は吉田修一の代表作として有名ですが、その人間ドラマの重さが似ているとして、「怒り」と「悪人」はよく比較されているようです。私も直感的にそれを思いましたね。

というわけで、約5年ぶりに映画を観ました。賛否両論あった本作ですが、私はかなりの高評価を出しています。公開当時、「人殺しはそんな軽いもんじゃないぞ」「出会い系で相手探そうとしていること自体がクズ」といったにべもない評価が周りではされていましたが、久しぶりに観なおして思ったのは、「やっぱりこの作品は傑作だな」という変わらない評価でした。

あらためてどこがよかったのか、書いてみようと思います。ちなみに公開から5年も経った有名な作品ということで、ネタバレしながら書きますのでご容赦を。

あらすじ

土木作業員として生業を立てている若者・清水祐一(妻夫木聡)は、長崎県の漁村で生まれ育った。幼い頃から実の母親とわけあって離れ、祖父母の面倒をみながら暮らしている。

趣味といえるものはなく、恋人も友人もいない。唯一、車を飛ばして走ることが生きがいとなっている。だが、それが決して楽しいわけでもなく、自分が何のために生きているのかよくわからなかった。

佐賀の紳士服量販店で働く馬込光代(深津絵里)は、生まれたときからこの量販店がある国道の範囲内を中心に生活している。今は妹とふたり、小さなアパートで共同生活をしている。職場とアパートを往復するだけの面白みもない毎日だ。

清水祐一と馬込光代は、ある出会い系サイトを経由して知り合った。セックスやお金が目当てではなく、ただ単に「誰か」に会いたかったのだ。

ふたりは恋や愛などではなく、魂のレベルで求め合った。しかし祐一は光代に言っていなかったことがある。ニュースで巷を騒がせている殺人事件の犯人であるということを。

「もっと早く会っていれば・・・。」

自首しようとする祐一を止めたのは光代だった。相手が殺人犯であることはわかっている。例え逃げ続けてもいずれは捕まるし、決して幸せになれないこともわかっている。でも仕方ないのだ、通じ合える人と初めて出会えたのだから。

灯台

ふたりの進む未来に幸せはない。逃げ込んだ先の灯台は、もうこの先に逃げ場はないことを示している。それでもこの生活をもっと続けたいと願ってしまう。引き裂かれることはわかっている。だが、その最期の瞬間まで一緒にいたいと魂が求めている。

本当の・・・悪人は、誰なのだろうか。

悪人とは何を指すのか

ところで、「悪人」とはいったい何なのでしょうか。悪いことをした人、とだけ理解すればいいのでしょうか。

例えば類語例解辞典によると、「悪人」はこう定義されています。

「悪人」は、存在そのものが悪である人間をいう。

存在するだけで悪とされる!?それはよっぽどの悪ということになりますね。

果たして祐一はそこまでの悪人なのでしょうか?

悪人

・・・とここまで意味深に語っておいてなんですが、私は清水祐一は悪人だと思っています。といってもそれは、人を殺してしまってからの祐一についてです。当たり前ですが、殺人を犯すまでの祐一は決して悪人ではありません。生まれつきの悪人はいないわけで、彼は悪人に「なってしまった」だけなのです。

これは映画のプロローグですでに表現されていますよね。タイトルの「悪人」が映し出されるのは、祐一のアップシーンですから。明確に祐一は悪人ですよと示されています。

悪人とは、結局相対的な見方で成り立つものなのです。「あなたにとっては悪人だけど、私にとっては善人だ」、そんなことはしょっちゅうあるでしょう?世間的に悪人とされていても、それはひとつの見方に過ぎません。

紙一重の違いで、悪人となってしまえる

物語では、わかりやすい悪人として満島ひかりや岡田将生の役柄が描かれていますよね。どうしようもないくらい中身のない、くだらない人間ではありますが、安易に「彼らの方が悪人だ!」と決めつけるのは、ちょっと違うんじゃないかと思います。

一線を越えてしまう、ということが、悪人かどうかを分ける境目なのかもしれません。それは本当に紙一重の違いくらいしかなくて、人は容易に乗り越えてしまうことができるのでしょう。此岸に留まるか彼岸に行ってしまうかを制御できなかったことが、祐一を悪人に仕立てあげたのです。

私たちは祐一がどんな境遇で育ったかを知り、どんな生活を送っているかを知り、どんな寂しさを抱えて生きているかを、物語を通して知っています。妻夫木聡という、決して悪人とは見れない俳優を祐一に当てたことも影響しているのでしょう。そして祐一が殺人事件を起こしてしまうまでの経緯もしっかり見ています。

故に、祐一を悪人とは受け止められないだけなんです。被害者側からしたらそんな事情は関係ありません。ニュースを見て事件を知った視聴者にも、そんな事情は関係ありません。いや、知る術がないといった方が正しいのか。

殺人という行為に手を染めた祐一は、悪人でなければならないのです。

何が真実かなんて、わかるはずがない

映画のキャッチコピーは、「なぜ、殺したのか。なぜ、愛したのか。」でした。

もちろん映画の中でその理由は語られていますが、結局のところ、祐一がなぜ殺人を犯したのかはわかりません。あまりに理不尽な態度をとる女に怒りを覚えて衝動的に殺したように描かれていますが、それは私たちにそう見えただけです。

なぜ愛したのか、もそう。私はそもそもふたりに間に愛があったとさえ思っていません。追い詰められた環境下で、魂の波長が合う人と偶然出会ったことによる、刹那的な衝動で求め合ったのだと考えています。私にはそう見えました。

エンド直前、光代がタクシーで「そうですよね、世間にとって、彼は悪人なんですよね…。」とこぼすシーンがあります。あのときの光代の顔が、私には忘れられません。悔しそうでも、悲しそうでもなく、ただ能面のような表情でそうこぼすのです。受け止め方は人によって違うでしょうけれど、私はあのとき、光代は祐一が悪人であることを認めたように見えました。

世間にとっての真実は、「祐一は出会い系サイトで知り合った女性を絞殺し、橋の上から突き落とした殺人犯」

光代にとっての真実は、「自分のつらい境遇と共鳴した祐一は、私にとって必要な人間であるとともに、悪人」

祐一にとっての真実は、「ようやく巡り会えた一緒にいたいと思える相手を、自ら悪人に徹することで救った」
・・・

真実

真実はひとつ。

でもその真実は、ひとりの人間に対してひとつ用意されている。

つまり、真実は人の数だけある。

この作品を観てわかったのは、「何が真実なのかなんて、わかるはずがない」ということでした。

『悪人』に共鳴された方は、ぜひ『怒り』も手にしてみてください。人を信じるとはどういうことなのか、について深く考えさせられると思います。



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