映画『アクト・オブ・キリング』 世界を変える映画であるとともに、二度と現れてはいけない映画

アクトオブキリング

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今後二度と現れてはいけない映画

衝撃的でした。

観終わった後、全く声が出なかった。

とりあえずこれを超えるドキュメンタリー映画は存在しないだろうし、また存在してはいけないと強く思う。事実は小説や映画なんかよりもよっぽど残酷で、容赦がなくて、そして人間はどこまでも愚かなんだと知らしめる、これはそんな映画です。

2014年4月に日本で公開されたこの『アクト・オブ・キリング/The Act of Killing』は、上映されるやいなや各界から絶賛の声が上がりました。映画界はもちろん、音楽、文学、政治家・・・世界を揺るがす映画となったことは間違いありません。

一体これは何だったのか。順番に紐解いていきましょう。

ストーリー

「殺人は許されない。殺した者は罰せられる。鼓笛を鳴らして大勢を殺す場合を除いて。」(ヴォルテール)

1965年、インドネシアで大規模なクーデターが勃発、被害にあったのは100万人を超える「共産主義者」。そしてその実行者である軍の人間は、現在「国民的な英雄」として悠々自適に暮らしているという。

映画作家のジョシュア・オッペンハイマーは人権団体の依頼を受け虐殺あった被害者やその関係者に取材を試みていたが、軍当局から被害者への接触を禁じられる。困ったジョシュアが思いついたのは、「それじゃあ加害者側に取材してみるのはどうだろう」というとんでもない案。

ジョシュアはこう提案しました。
あなたが行なった虐殺を、もう一度演じてみませんか?

意外なほどにすんなりと案は受け入れられ、むしろ彼らは嬉々として、過去に行なった残虐な行為を自ら演じ始めたのだ。彼らは映画スターにでもなったかのように振る舞い、過剰なほどの演技(=act/アクト)で映画を盛り立てようとする。最初は加害者側の行為(=act/アクト)を再演することで、過去の栄光に恍惚となる姿が見受けられるが、いざ被害者側を演じることになったとき、彼らにある変化が訪れる・・・。

「悪の凡庸さ」について、あらためて考える

この映画(いや、ドキュメンタリーと呼ぶほうが相応しいか)を観た後、ずっと「悪の凡庸さ」について考えさせられています。この言葉は、ナチス時代のドイツに生まれたユダヤ人思想家ハンナ・アーレントが定義したことで有名ですね。

ハンナ・アーレント

ハンナ・アーレント

ナチス親衛隊のメンバーであったアドルフ・アイヒマンは、ヨーロッパの各国からドイツ東部・ポーランドの収容所などへユダヤ人を移送する業務を統括していたといわれる重要人物。このアイヒマンがかけられた裁判を傍聴した後で掲出したレポート「イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告」で、初めてその言葉が見受けられます。そこでは以下のように語られていました。

アイヒマンは悪魔などではなく、ただ上長の命令に従って仕事をこなすだけの小役人にすぎない。その所業から怪物的なイメージを持つかもしれないが、悪の権化などでは決してなく、言うならば思考停止した官僚だったと。答弁においてアイヒマンは、紋切り型の決まり文句を繰り返していたといいます。アーレントはそれを、思考力の欠如、それも誰かの立場に立ってものを考える能力の欠如であると指摘したのですね。

アイヒマンという小役人にとって、処刑した命の数は紙の上の数字でしかなかった。上長からの命令に従い、下に命令を下すだけなら思考停止した人間にでもできる。「それが正しいことなのかどうか」を考えなくていいのであれば。

徹底的に合理化されたシステムの元では、自分がその仕事をこなすことに疑問を持たなくてもかまわない。こなせば評価されるのだから。いつの間にかその行為が、とんでもない犯罪行為に加担しているとしても気づかないだろうけれど。

アドルフ・アイヒマン

アドルフ・アイヒマン

アイヒマンに悪意はなかった。悪意の想像もしていなかったかもしれない。アーレントの言う<<悪の凡庸さ>>とは、こうした悪意のない悪のことを指しています。そして、現代社会の病理であるとも。

『アクト・オブ・キリング』は、まさにその<<悪の凡庸さ>>を体現した加害者たちを、晒し首にし返したのではないでしょうか。

演技と行為、ふたつのアクト=act

過去の殺人を追体験するという演技(=アクト)を楽しむ出演者=加害者たち。被害者を演じ始めたとき、彼らは人生で初めて自分たちのが行なってきた行為(=アクト)について知ることになります。

この映画の主人公は、北スマトラで1,000人もの人を虐殺したというアンワル・コンゴ。
「最初は殴り殺してたんだけど、血を片付けるのが面倒だろ?ひどい匂いだし。だからこうしてワイヤーで首を絞めるほうがはかどるんだ。」などと、嬉々として殺害手法について語るアンワルは、映画中最も変化をみせる加害者でした。

アクト・オブ・キリング

しばらく袂を分かっていたアディというもうひとりの大物加害者と釣りに興じる場面で、アンワルは「悪い夢を見るんだ。」と悩みを打ち明けています。針金で首を絞めて殺害した人間のことが思い浮かぶというアンワルに対し、アディは「それは精神が弱っているんだ。神経科にいって医者に見てもらえ。ビタミン剤を処方してもらえばいい。」とバッサリ切り捨てます。

ここは象徴的なシーンではないかと思います。同じような虐殺者でありながら、全くその受け入れ方が違うんですね。アンワルは死ぬ必要のなかった人間を殺してしまったという、ある種の罪悪感を持っているようです(「持っている」と言い切らないのは、アンワルが「演技」をしている可能性もあるなと私が感じるから)。

それに対しアディはひどく合理的に考えます。もう過去のことだし、それが罪になることはない。悪夢は精神が病んでいるだけだから薬で治せばいい。歴史は勝者が決めることなんだから、と。実に対照的ですよね。前述のアーレントが定義した「悪の凡庸さ」はアディにこそ相応しい言葉じゃないでしょうか。

虐殺者が虐殺を体験すること

アクト・オブ・キリング

アンワルが目隠しをされ針金を首に巻き付けられたとき、彼は「怖かった、被害者の気持ちがわかった」とのたまった。そんなバカなことがあるか!被害者の気持ちがわかった気になっているだけだ!これは映画だから本当にアンワルが殺されることはない。そんなことはアンワルもわかっているはず。

しかし実際に殺されてしまった人は、殺されるとわかっていて殺されている。ここには絶対に埋められない溝があります。それだけ死と離れたことなのに明確に死を意識しているアンワルは、自分が行なってきたことがどういうことだったのか、ようやく理解したのかもしれません。

アクト・オブ・キリング

ただ、この映画を観終わって後も私は、彼らが真の意味で改心したとは微塵にも思っていません。程度の差はあれ、彼らは凡庸な悪の象徴。どこか他人事のように捉えているんだろうなとしか考えられません。そして時間が経てば経つほど、その罪の意識はまた薄れていく。犯した罪を償い終わることは決してなく、償い続けることが償いの本質なのではないかと私は考えています。

アンワルやアディは今後も処罰を受けることはないでしょう。きっと英雄と評されたまま死んでいくんだと思います。

ただ、少しでもその英雄伝説に楔を打ち込むことができたのなら、この映画の価値は十分にあったといえます。誰も口に出来なかった、そして未だに真相がはっきりしていないこの虐殺事件の中身を、世界に知らしめることができたのですから。


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