自分に過去の記憶や思い出が少ないのは、「自分で決めたこと」が少なかったから。

ブロガー・イケダハヤトさんのブログを読んでいて、興味深い記事を見つけました。
5歳で物書きになることを決めた:よしもとばななさんの職業哲学がすごすぎて焦る

よしもとばななさんの小説って、そういえばあんまり読んだことがない。

確か小学校のときに、国語の教科書に海燕新人文学賞を受賞した『キッチン』という作品が載っていたのを読んで以来、何故だか読むことがありませんでした。しかし、当時衝撃を受けたことだけは覚えています。

さて、今回イケダさんのブログで取り上げられたのは、朝日新聞デジタルの転職ページ内・「仕事力」という特集コーナーにある、作家・よしもとばななさんのインタビュー記事でした。元記事URLを紹介しておきますね。

「人には、社会の中の分担がある」 よしもとばななが語る仕事―1
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この記事自体がとんでもなくおもしろく、いかにサバイバルしながら人生を過ごしてきたのか、そしてこれからの時代は否応なくサバイバルしないといけないかが書かれていて、これからの働き方・生き方のひとつの指標になるかと思います。

イケダさんのブログではその観点から見た記事が書かれているのですが、私はこのインタビューを読んで、自分が今まで悩んでいたことを解決する、あるフレーズに目が止まりました。

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それをはっきり覚えているのは、自分で決めたから

職業については小学校に入る前から考えられていて、消去法的に「この仕事はできない」「これはダメだろう」と切っていった末に残ったのが文章を書く仕事だったそうですが、書き始めたのが5歳のときだったのを覚えていることに対して仰った言葉がこの、「それをはっきり覚えているのは、自分で決めたから」というものでした。

なぜこの言葉が引っかかったかというと、私にはあまり過去の記憶がないからなんです。といっても、別に記憶喪失とかそういった重い話ではありませんよ。

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ただ、物心ついてからの思い出があんまりないというか、思い出せないことが非常に多いんです。家庭環境が悪かったわけでもなく、おそらくそれなりに旅行にも連れて行ってもらいましたし、どこかに遊びにいったりすることもありました。行事もメジャーなものは経験しています。そして、決して「楽しくなかった」わけでもない

なのに、なぜそういった思い出がないのか。または、あったとしたらなぜ思い出せないのか…。

それを単に「記憶力がない」ということにして、今までは片付けてきました。

実際、学生のときに苦戦したのは「暗記教科」だったりしますし、それだけにわりと信憑性があったのも後押ししてくれました。皮肉なことに。

でも、なんだか寂しいですよね。親は私のことを思って旅行やイベントに連れて行ったくれたんでしょうし、楽しんでいたにも関わらず覚えていないっていうのは、やっぱり寂しい。

今から3年前の28歳くらいまで、同じことは続いていたと思います。社会人になっていろんな仕事をしましたが、ふと振り返るとあんまり覚えていない。なぜなんだろう?

そんなときにこのコトバに出会い、ハッとしました。

あ…「自分で決めてない」から覚えてないんだ…。

もう一度人生を振り返ってみたところ、覚えていないのは悉く「自分で決めていないこと」だったんです。もちろん全てじゃないですよ。でも大半が「人の判断で行なったこと」だったのは確かです。

例えば大学受験。

私は「この大学に行きたい!」という自分の想いが全くありませんでした。そもそも全然受験勉強をしていませんでしたし、大学に行きたいのかどうかもはっきりしないまま何となく親が通っていた大学を受験し、先生がもっと上の大学を目指せというからその大学も受験してみました。

結果として、私の勉強量では無理だろうなーと思っていた、先生が薦めてきた大学に合格したので鼻高々でしたが、そもそもその大学のことを調べもしていません。この段階で私が決めたことは、「合格した2つの大学のうち、どちらに行くか?」くらいのものです。(即決で先生が薦めてきた方の大学に決めましたが)

大学に入っても、講義の選択すらロクに決めていません。そのとき出来た友人の意見に流されるがまま講義を選択し、なんとなく上手くこなして単位を取り、なんとなく卒業したまでです。

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さらにこれは就活にも引き継がれ、「何の仕事がしたいのか?」「自分に適した仕事は何なのか?」について真剣に考えないままそれとなく就職活動をし、ネームバリューのある会社を適当に選択して面接を受け、最初に内定を受けた会社にあっさりと決めたのも早く就職活動を終えたかったからという始末。なので、ここまでの就職活動の記憶はほとんどありません。ただ苦労したなぁという、漠然とした想いだけ。

結局この後、こんな内定先ではダメだと気付き、内定を辞退して再度就職活動を開始、4年生の10月頃に内定を頂いたいくつかの会社から「自分で選んだ」ところに決めて就職しました。ですので、このあたりの気持ちや想いは明確に記憶しています。

社会人になってからのことも、考えてみると「自分で決めたこと」は結構覚えているんですよね。人の判断で仕方なくやったことや、考えることを放棄して流れに任せていたときのことはほとんど覚えていない。改めて振り返ると、見事に当てはまるんです。

そんな思考停止人生を長らく送ってきた私ですが、3年前に「意識的に自分を変える決断を下した」ときからの記憶は山のようにあります。もちろん、記憶の中でもわりと新しいものだから残っているだけということも考えられるので、確信まではいっていませんが、「自分で決めたこと」は本当にリアルに思い出すことができます。

だとすると、「決断」できることの少ない子ども時代の思い出については、どう説明する?

さて、では最初の方に書いた親子での行事やイベントの記憶についてはどうなのでしょうか?物心がついていたとはいえ、このときの私に「決断」ができることは少ないので、「自分が決めたこと」ではないから記憶がないのだとしたら、多くの人は子どもの頃の記憶がないことになってします。それはさすがにおかしい。

これについてはハッキリとしたことを言えないのですが、いろいろと考えた末にひとまず結論づけたのが、それぞれのとき私は「他にもっと楽しいことがあるけど、せっかくだから楽しもうかな。」という半分ネガティブな気持ちでいたことが原因だったんじゃないかということでした。

「他の楽しいこと」というのは、端的にいって「テレビゲーム」のことですね。

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私の生まれた年にファミリーコンピュータが発売されたこともあり、テレビゲームの成長とともに私も育っていきました。当然のようにハマり、正直言うと友だちと遊ぶよりテレビゲームしている方が楽しいとさえ思っていました。つまり、「友だちと遊ぶより楽しい、テレビゲームで遊ぶことを自分で決めた」ということです。

これは家族行事にも飛び火し、例えばキャンプに行くときも携帯ゲームを持ち込み、「キャンプを楽しむよりゲームを楽しむことを自分で決めた」し、プールで遊ぶときにも「プールを楽しむより、併設されたゲームセンターで遊ぶことを自分で決めた」から、肝心のイベント部分を覚えていないんじゃないかと。かわりに、そのゲームのことはありありと思い出せるんですよ。目をつぶれば画面が表示され、攻略法まで導きだせる程に。「自分で決めたこと」がゲームに偏っていたから、思い出も極端なほどゲームについてしか残っていない。

こう考えると、私に思い出が少ないことについて、大半の部分が解決します。要するに、思い出が偏りすぎているということなんでしょう。

別に大した根拠もない仮説にすぎませんが、今の自分が持つ”思い出”や”記憶”の大半が「自分で決めたこと」である事実。特に、覚悟を決めて決断したことは、古い記憶でもありありと思い出すことができます。そのことから、人間は「自分で決めたこと」しか記憶には残らないんだな、と結論づけました。(そう思うことで、思い出が少なくて寂しく感じてしまう自分が救われるからかもしれませんがね…)

この記事に出会ってよかったなぁ。本当に救われました。
でも、読んで下さる皆さんはどう思うのだろう?そのあたり、ぜひ聞いてみたい。

※↓このマンガの主人公は、ゲームが大好きだった頃のわたしそのもの。感情移入しすぎて泣けてきます。


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