映画『さよなら渓谷』「被害者」や「加害者」というレッテルではなく、その“人間”を見よ!

映画「さよなら渓谷」公式サイト

f:id:you-7188:20140311235847p:plain

先日こんな記事をアップしました。↓

真木よう子さんのおかげで、はじめてPVアクセス数が1日10,000PVを突破しました! – ヘンテナブログ

日本アカデミー賞の授賞式があった3月7日、当ブログのアクセスがいつもの10倍になったことを書いたのですが、その原因は以前私が書いた小説『さよなら渓谷』のレビューが、アカデミー賞主演女優賞&助演女優賞をW受賞した真木よう子について検索した人たちによって多く閲覧されたことによるものでした。

理由はどうあれ、力を入れて書いた記事が多くの人に読んでもらえたのは至福の喜びなのですが、あれはあくまで“原作小説”について書いたレビューなので、なんとなく居心地が悪い感じがしていました。しかも私は、映画版を観ていなかったのでなおさらです。

というわけで、さっそくゲオでレンタルして帰り、先ほど見終わったところです。

さて、その感想は・・・

スポンサーリンク
スポンサードリンク

忠実な映画化

原作に忠実に映画化されている、というのが最初の感想。

小説から感じる「乾いた」イメージや、「生」の気配を感じさせない空虚で静寂な世界観が映像から伝わってきます。とにかく死の瀬戸際を行ったり来たりしているようで、あっという間に転落してしまいそうな危うさが、そこかしこからしてきますね。

吉田修一の小説は脳裏に映像が浮かびやすいとよく言われていますが、まさに思い描いた通りの世界がそこにはありました。

この映画化に際しては、主演の真木よう子のすばらしい演技と美しい肢体にばかり目がいきがちですが、脇を固める助演陣もみな抜群の存在感でした。レイプ犯を演じる大西信満、記者役の大森南朋・鈴木杏、武勇伝のようにレイプ行為を語る犯人の一味役・新井浩文、DV夫役・井浦新と、大物揃い。特に井浦新の小物っぷりがよかった!

「被害者」と「加害者」

さて、今作の重要なテーマは「集団レイプの被害者女性と主犯格男性との間に、愛情は生まれるのか」であることは以前の記事でも書きましたが、映画中で大森南朋扮する週刊誌記者・渡辺がとても納得のいくことを喋っています。

この事件を「被害者」と「加害者」という見方で判断するな。

あくまで「尾崎俊介」と「尾崎かなこ(=水谷夏美)」 という“人間”で見ろ。

血の通った“人間”を表現することに長けた吉田修一の小説を読むと、怖いくらいに人間というものを理解できるようになります。

この言葉は決して小説や映画の中だけで通じる記号などではありません。現実に起こっている凄惨な事件や、理解しがたい犯罪などでも同じこと。「被害者」「加害者」「傍観者」といったテンプレートに当てはめて全てが解明できる程、人間というものは単純にできていないんです

それぞれ、別々の人間。区別すると「被害者」と表されるかもしれないが、それぞれ事情をあれば、過去の体験も同一ではない。被害者というレッテルを貼ることで自動的に浮かび上がる「かわいそう」「不憫」「無惨」といった感想が、貼られた被害者全員に適したものであるとは限らない

「加害者」だから悪い。それはそうかもしれませんが、悪さの重みも違うし、思考停止なレッテル貼りは何も解決しない。物事を見定めるには、その人間を見極めなければならないでしょう。

この話で描かれる事件を解決するためには、納得できないまでも理解するためには、「尾崎俊介」と「尾崎かなこ(=水谷夏美)」という“人間”を知らなければならない。

私たちは、幸せになるために一緒にいるんじゃない

なんて悲しい言葉なんでしょうか。

映画中でかなこが発するこの言葉。そう、彼女らは不幸になるために一緒にいるんです。幸せになることを願ってはいけない。

ふたりの関係は、レイプ犯と被害者。幸せになれるはずもないし、そもそも一緒にいる事自体が理解しがたい。

何故かなこがレイプ犯と一緒に暮らしているのかを理解するには、かなこの人生を理解しなければ分からない。「被害者」としてしか見ていないのであれば、きっとわからないでしょう。

原作小説よりも「人間」として見ることを要求されるこの映画は、傑作といって過言ではないでしょう。同じ吉田修一原作の映画「悪人」と合わせて、人間を知るための映画として語り継がれていくことを願います。

※小説版のレビューはコチラ

吉田修一『さよなら渓谷』 不幸になるために、一緒にいる。

スポンサーリンク
スポンサードリンク
スポンサーリンク
スポンサードリンク